2019年05月26日
■住吉神社復旧にむけて
我が町基山の宝である特別史跡基肄城跡南水門の守り神・住吉神社の復旧プロジェクトにむけて、地元丸林の皆さんと基山町役場の担当者、そして当会の副理事長がオブザーバーとして、本日、夕刻に住吉神社前に参集し話し合いが持たれました。まずは、基山町役場から特別史跡基城跡の修理工事スケジュールが説明され、その後、今年認定を受けた基山町歴史的風致維持向上計画に基づく、歴史的風致形成建造物保存修理としての住吉神社復旧工事までの諸手続きが説明されました。
昨年7月の豪雨によって被災した住吉神社は、現在は筒川に埋没した神社部材が引き上げられ、水門前の前庭に修理の時を待っているかのように置かれています。欠損した部材も多く、修理に相応の手間がかかりそうですが、完存した部材もあるため、これらを活用しつつ欠損した部材については新材にて復元し修理を行うことで可能ではないかと判断しています。
修理する前提は、修理して終わりではなく、修理後も「お潮井」採りの空間として活用し、神社ともども活動が継続することが必要です。そこに、国土交通省の補助金が活用できる条件が課せられています。本日、参集いただいた地元丸林の皆さまのお一人おひとりのお姿に、修理にかける「力」を感じる思いがしました。
●被災前の住吉神社


ご親族が寄進者として名を刻む神社部材を修理し復元する住吉神社復旧プロジェクト。
復旧し「お潮井」採りが、この空間で再び催行されるその日を目指して、みんなで進んでいきましょう!
※令和元年度の第4回きやま創作劇『こころつないで ~基肄城に秘められたおもい~』の舞台でもあります。ただし、現在大規模な修復工事が行われています。工事車両などで大変危険ですので、南水門を含め周辺には近づかないよう、お願いいたします。
昨年7月の豪雨によって被災した住吉神社は、現在は筒川に埋没した神社部材が引き上げられ、水門前の前庭に修理の時を待っているかのように置かれています。欠損した部材も多く、修理に相応の手間がかかりそうですが、完存した部材もあるため、これらを活用しつつ欠損した部材については新材にて復元し修理を行うことで可能ではないかと判断しています。
修理する前提は、修理して終わりではなく、修理後も「お潮井」採りの空間として活用し、神社ともども活動が継続することが必要です。そこに、国土交通省の補助金が活用できる条件が課せられています。本日、参集いただいた地元丸林の皆さまのお一人おひとりのお姿に、修理にかける「力」を感じる思いがしました。
●被災前の住吉神社


ご親族が寄進者として名を刻む神社部材を修理し復元する住吉神社復旧プロジェクト。
復旧し「お潮井」採りが、この空間で再び催行されるその日を目指して、みんなで進んでいきましょう!
※令和元年度の第4回きやま創作劇『こころつないで ~基肄城に秘められたおもい~』の舞台でもあります。ただし、現在大規模な修復工事が行われています。工事車両などで大変危険ですので、南水門を含め周辺には近づかないよう、お願いいたします。
2019年05月12日
■第4回きやま創作劇『こころつないで』にむけて
第4回きやま創作劇は、私たちの原点である『こころつないで ~基肄城に秘められたおもい~』を公演します。大筋では、基山町小中学校合同創作劇四作(以下「四作」と記載)の内容に変化はないと、「現在」のところ、脚本制作者である福永真理子さんは考えられていますが、きやま創作劇の制作理念である子どもから大人までの「オール基山」で制作することが、かつての四作とは異なっています。
どのような物語になるのかは、お楽しみに!!

●天智天皇欽仰之碑から筑紫平野を望む
第4回きやま創作劇『こころつないで ~基肄城に秘められたおもい~』制作にむけて、予習のための冊子が既に刊行されていますので、お時間がある時にご一読ください。
①特別史跡基肄城跡ガイド
②発見!きやまの歴史1 基肄城のヒミツ
③基肄城跡(基山)めぐり地図
④基山町文化遺産情報1 『きざん(基山)を伝える -「きざん」にある文化遺産-』
⑤町史研究きやま 創刊号 -創作劇『こころつないで』第1回公演の軌跡-


※全て、基山町立図書館にてご覧いただくことができます。また①~③は、基山町教育委員会にて配布されていますので、お入り用の方は基山町教育委員会教育学習課へお尋ねください。
※特別史跡基肄城跡は、昨年7月の豪雨災害で南水門および周辺域が土砂崩れによる大規模崩壊で危険な状態です。近々、復旧のための大規模な工事が開始され危険ですので、近づかないようお願いします。
どのような物語になるのかは、お楽しみに!!

●天智天皇欽仰之碑から筑紫平野を望む
第4回きやま創作劇『こころつないで ~基肄城に秘められたおもい~』制作にむけて、予習のための冊子が既に刊行されていますので、お時間がある時にご一読ください。
①特別史跡基肄城跡ガイド
②発見!きやまの歴史1 基肄城のヒミツ
③基肄城跡(基山)めぐり地図
④基山町文化遺産情報1 『きざん(基山)を伝える -「きざん」にある文化遺産-』
⑤町史研究きやま 創刊号 -創作劇『こころつないで』第1回公演の軌跡-


※全て、基山町立図書館にてご覧いただくことができます。また①~③は、基山町教育委員会にて配布されていますので、お入り用の方は基山町教育委員会教育学習課へお尋ねください。
※特別史跡基肄城跡は、昨年7月の豪雨災害で南水門および周辺域が土砂崩れによる大規模崩壊で危険な状態です。近々、復旧のための大規模な工事が開始され危険ですので、近づかないようお願いします。
2019年05月11日
■4回目を迎える「きやま創作劇」、動き出します!
令和の新しい世の中が始まりました。4回目を迎える「きやま創作劇」も動き出します。
新しい元号の始まりを期して、私たち「きやま創作劇」も、その前身である基山町小中学校合同創作劇「こころつないで ~基肄城に秘められたおもい~」の原点に立ち戻り、ゼロからスタートした「おもい」を、つないでいくことにしました。
新元号「令和」ゆかりの地・大宰府(おおみこともちのつかさ)の南の守りとして飛鳥時代に築かれた基肄城を、今一度、我が町きやまの「宝」として再認識していただくとともに、大宰帥 大伴旅人邸で行われた「梅花の宴」に集った筑後国司葛井連大成が、通ったであろう「城の山道」が、我が町きやまにある基肄城の中を通っているとされており、新元号「令和」と我が町きやまとの縁の深さを感じていただきたいと思います。

●基肄城と大宰府

●基肄城

●筑紫平野を望む
これは、日本国内広しといえど、我が町きやまであるからこそできることです。
時空を越えて、この基山に生きた人々がつながり、未来の基山の姿を見通すことが、「きやま創作劇」の持つ力であり、役目です。「きやま創作劇」に集う皆さんに、新しき元号「令和」に記された「おもい」とともに、万葉の原風景を体感できる我が町きやまの地を再認識していただき、特別史跡基肄城跡に秘められた「おもい」を未来の町民につないでいきましょう。
本創作劇は、現代の基山に集う方々の知恵と力と技で創り上げていきます。集う皆さんに、心からお願いです。お一人お一人が主体者であることを自覚してください。「自由」という言葉を装った「我がまま」ではなく、応分の「義務」を担い社会的に認められる真の「自由」を獲得していただくよう、お願いいたします。
具体的には、事務局から出される情報の獲得、練習への心構え、与えられた役割、全て依存的な立場から卒業し、主体者として自ら学び、獲得し、進む心構えをお願いします。
これから社会に飛び立つ子ども達は、特にお願いします。現実社会は「冷たく」「厳しい」ものですが、自立し自律することで乗り越えることができるものだからです。

※当会は、きやま創作劇実行委員会を構成する団体としても活動しています。
新しい元号の始まりを期して、私たち「きやま創作劇」も、その前身である基山町小中学校合同創作劇「こころつないで ~基肄城に秘められたおもい~」の原点に立ち戻り、ゼロからスタートした「おもい」を、つないでいくことにしました。
新元号「令和」ゆかりの地・大宰府(おおみこともちのつかさ)の南の守りとして飛鳥時代に築かれた基肄城を、今一度、我が町きやまの「宝」として再認識していただくとともに、大宰帥 大伴旅人邸で行われた「梅花の宴」に集った筑後国司葛井連大成が、通ったであろう「城の山道」が、我が町きやまにある基肄城の中を通っているとされており、新元号「令和」と我が町きやまとの縁の深さを感じていただきたいと思います。

●基肄城と大宰府

●基肄城

●筑紫平野を望む
これは、日本国内広しといえど、我が町きやまであるからこそできることです。
時空を越えて、この基山に生きた人々がつながり、未来の基山の姿を見通すことが、「きやま創作劇」の持つ力であり、役目です。「きやま創作劇」に集う皆さんに、新しき元号「令和」に記された「おもい」とともに、万葉の原風景を体感できる我が町きやまの地を再認識していただき、特別史跡基肄城跡に秘められた「おもい」を未来の町民につないでいきましょう。
本創作劇は、現代の基山に集う方々の知恵と力と技で創り上げていきます。集う皆さんに、心からお願いです。お一人お一人が主体者であることを自覚してください。「自由」という言葉を装った「我がまま」ではなく、応分の「義務」を担い社会的に認められる真の「自由」を獲得していただくよう、お願いいたします。
具体的には、事務局から出される情報の獲得、練習への心構え、与えられた役割、全て依存的な立場から卒業し、主体者として自ら学び、獲得し、進む心構えをお願いします。
これから社会に飛び立つ子ども達は、特にお願いします。現実社会は「冷たく」「厳しい」ものですが、自立し自律することで乗り越えることができるものだからです。

※当会は、きやま創作劇実行委員会を構成する団体としても活動しています。
2019年05月06日
■神や仏(その2)
自然神を祀る行為から始まった神祇信仰は、奈良時代に入ると天皇家を神格化するために『古事記』『日本書紀』といわれる国書として奈良時代に編さんされ、「神祇信仰」から「古代国家神道」へと移ります。その後、仏の教えである仏教が移入され、様々な宗派に分かれ、さらにキリスト教などが移入されてきます。神道と仏教の関係は、古代以来の歩みを深め、神仏習合という自然神や天皇家の先祖としての神々が仏と結びつき、その時代時代の力関係を背景に神道と仏教の相互依存関係が成立してきます。

■基山町の小原にある隼鷹天神社には、仏式で用いる線香立てが置かれています。
一般民衆の中では、「神も、仏も」同じという価値観が生まれ、神社内に神は本来仏様であり真のお姿としての仏様が祀られるという事態も千年余りの間にわたり続きます。本地垂迹という考え方で、神の本来の姿(本地)を祀るという思想が広がります。この事態に「終止符」を打ったのが慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された一連の通達として知られる神仏分離令です。明治維新の動きの中で、神道の国家化、いわば国家神道化を推し進めるため、神仏習合の中で生まれていた神社内に仏像を祀ることや僧侶の奉仕を禁じたのです。
我が町基山に、太宰府天満宮(江戸時代までは天満宮安楽寺)からの請来仏があるのも、この神仏分離令を曲解した廃仏毀釈運動から天満宮安楽寺の仏像を、基山出身で太宰府に出て出家していた天本茂左衛門が救った結果なのです。大興善寺本堂に安置されている仏様の多くも、その時の仏様で、大興善寺本堂内に置かれている駕籠も、仏様を入れて、その時持ち込まれたものといわれています。
話を戻して、「神も仏も」同じという神仏習合の考え方は、1000年以上の歴史を有していますが、今を生きる私たちは、日本の神様、仏様は別々の「宗教」が崇拝するものという観念を抱き、日々を生活しています。このような観念を抱いたきっかけは、ほんの150年前に布告された神仏分離令にたどることができるようです。
明治新政府が進めたものの一つに、今話題の「男性天皇制」の法的根拠となっている『皇室典範』があります。現在の『皇室典範』は昭和22年(1947)に定められたものですが、その典拠となったものが明治22年(1889)に定められた旧『皇室典範』です。この第1条に「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定められ、現在の『皇室典範』第1条の「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」に引き継がれています。
天皇は、「男性」でなければならないとする観念も、先に記した「近世以前の天皇制」をみるかぎり、明治時代から生まれてきているといえそうです。
私たちが「常識」と思っていることの中には、歴史的にみて「非常識」が潜んでいるかもしれません。
※太宰府天満宮が、菅原道真公を弔う場としての安楽寺であったことは、平成29年(2017)12月30日の本ブログ「基山町小倉と太宰府天満宮」を御覧ください。

■基山町の小原にある隼鷹天神社には、仏式で用いる線香立てが置かれています。
一般民衆の中では、「神も、仏も」同じという価値観が生まれ、神社内に神は本来仏様であり真のお姿としての仏様が祀られるという事態も千年余りの間にわたり続きます。本地垂迹という考え方で、神の本来の姿(本地)を祀るという思想が広がります。この事態に「終止符」を打ったのが慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された一連の通達として知られる神仏分離令です。明治維新の動きの中で、神道の国家化、いわば国家神道化を推し進めるため、神仏習合の中で生まれていた神社内に仏像を祀ることや僧侶の奉仕を禁じたのです。
我が町基山に、太宰府天満宮(江戸時代までは天満宮安楽寺)からの請来仏があるのも、この神仏分離令を曲解した廃仏毀釈運動から天満宮安楽寺の仏像を、基山出身で太宰府に出て出家していた天本茂左衛門が救った結果なのです。大興善寺本堂に安置されている仏様の多くも、その時の仏様で、大興善寺本堂内に置かれている駕籠も、仏様を入れて、その時持ち込まれたものといわれています。
話を戻して、「神も仏も」同じという神仏習合の考え方は、1000年以上の歴史を有していますが、今を生きる私たちは、日本の神様、仏様は別々の「宗教」が崇拝するものという観念を抱き、日々を生活しています。このような観念を抱いたきっかけは、ほんの150年前に布告された神仏分離令にたどることができるようです。
明治新政府が進めたものの一つに、今話題の「男性天皇制」の法的根拠となっている『皇室典範』があります。現在の『皇室典範』は昭和22年(1947)に定められたものですが、その典拠となったものが明治22年(1889)に定められた旧『皇室典範』です。この第1条に「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定められ、現在の『皇室典範』第1条の「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」に引き継がれています。
天皇は、「男性」でなければならないとする観念も、先に記した「近世以前の天皇制」をみるかぎり、明治時代から生まれてきているといえそうです。
私たちが「常識」と思っていることの中には、歴史的にみて「非常識」が潜んでいるかもしれません。
※太宰府天満宮が、菅原道真公を弔う場としての安楽寺であったことは、平成29年(2017)12月30日の本ブログ「基山町小倉と太宰府天満宮」を御覧ください。
2019年05月05日
■神や仏(その1)
天皇家の始祖が天照大御神様で、女性神であることは知られています。神様がこの地に降りて来られ、天皇家へ引き継がれていくという『神話』が、奈良時代に編さんされた『古事記』に記されています。この地に降りて来られたのが瓊瓊杵尊様で、それを先導されたのが道しるべの神さまとして祀られる猿田彦大神様です。この神世から地上へ舞い降りたこの物語が天孫降臨として語られています。

■木山口町の北の入り口・若宮八幡神社の長崎街道沿いに建つ猿田彦大神碑
日本の神様をお祀りする場が、神社であることは皆さんご存知でしょう。
神様といえば、イエスを救い主として信じるキリスト教や他の様々な宗教でも「神様」という言葉を使います。諸外国で起こった宗教に共通していることは、「神様」のお言葉を人々に伝えるという形をとり、その先達が「教祖」と呼ばれることが多いようです。
一方、「神様」のお言葉を人々に伝える形に似た宗教として、「仏様」のお言葉を人々に伝える宗教に仏教があります。といっても、仏教が伝える経典は、仏となられた釈迦(ゴータマ・ブッダ)の教えが記されています。
いずれにしても、崇拝する神・仏のお言葉(教え)を仲介する人(教祖)を介して人々に伝えるのが宗教とされています。一方、宗教という教えを持たず、「神」という存在そのものを敬うのが、「宗」という単語を持ちない「神道」です。
天皇家の「神道」が始まる前から、自然神を祀り崇める「道」として、神道は始まっています。荒穂神社の御祭神が瓊瓊杵尊様であると記しましたが、その前から存在していたと考えられるのが、基山(きざん)山頂に祀られている「タマタマ石」に宿りし「荒穂大明神」様です。

■基山(きざん)山頂に鎮座する「タマタマ石」

■荒穂神社
【鳥居-御本殿を結んだ先の基山(きざん)山頂にタマタマ石が鎮座しています】
人々は、衣食住を求め自然の中で生活していました。定住化した生活が、人々の安寧をもたらしたという解釈が一般的ですが、一日の時間的拘束をもたらしたのも定住化生活であったという解釈もなされています。狩猟採集社会であれ、農耕社会であれ、自然との「共生」は必ず必要となってきます。現在も、その時々の天候に様々な事象が左右されていることを考えると、「自然神」の存在は人々の中に必然的に生まれてくることは否定できないでしょう。今や、昨今の自然災害をみるにつけ、「耐震」「自然に打ち勝つ防災」が絵に描いた餅であり、「免震」「自主避難」がマスメディアの文字として出てきていることからも理解できるのではないでしょうか。
日本の神道は、神の教義を伝えるのではなく、日々の生活の安寧に感謝する祀りが根幹にあります。このように考えてくると、神道と宗教とは本来別のものとした方がいいのかもしれません。
ただし、このような考えのもと、宗教外の思想として神道を扱い、国家神道として政治の道具に利用された時代があったことは忘れてはなりません。

■木山口町の北の入り口・若宮八幡神社の長崎街道沿いに建つ猿田彦大神碑
日本の神様をお祀りする場が、神社であることは皆さんご存知でしょう。
神様といえば、イエスを救い主として信じるキリスト教や他の様々な宗教でも「神様」という言葉を使います。諸外国で起こった宗教に共通していることは、「神様」のお言葉を人々に伝えるという形をとり、その先達が「教祖」と呼ばれることが多いようです。
一方、「神様」のお言葉を人々に伝える形に似た宗教として、「仏様」のお言葉を人々に伝える宗教に仏教があります。といっても、仏教が伝える経典は、仏となられた釈迦(ゴータマ・ブッダ)の教えが記されています。
いずれにしても、崇拝する神・仏のお言葉(教え)を仲介する人(教祖)を介して人々に伝えるのが宗教とされています。一方、宗教という教えを持たず、「神」という存在そのものを敬うのが、「宗」という単語を持ちない「神道」です。
天皇家の「神道」が始まる前から、自然神を祀り崇める「道」として、神道は始まっています。荒穂神社の御祭神が瓊瓊杵尊様であると記しましたが、その前から存在していたと考えられるのが、基山(きざん)山頂に祀られている「タマタマ石」に宿りし「荒穂大明神」様です。

■基山(きざん)山頂に鎮座する「タマタマ石」

■荒穂神社
【鳥居-御本殿を結んだ先の基山(きざん)山頂にタマタマ石が鎮座しています】
人々は、衣食住を求め自然の中で生活していました。定住化した生活が、人々の安寧をもたらしたという解釈が一般的ですが、一日の時間的拘束をもたらしたのも定住化生活であったという解釈もなされています。狩猟採集社会であれ、農耕社会であれ、自然との「共生」は必ず必要となってきます。現在も、その時々の天候に様々な事象が左右されていることを考えると、「自然神」の存在は人々の中に必然的に生まれてくることは否定できないでしょう。今や、昨今の自然災害をみるにつけ、「耐震」「自然に打ち勝つ防災」が絵に描いた餅であり、「免震」「自主避難」がマスメディアの文字として出てきていることからも理解できるのではないでしょうか。
日本の神道は、神の教義を伝えるのではなく、日々の生活の安寧に感謝する祀りが根幹にあります。このように考えてくると、神道と宗教とは本来別のものとした方がいいのかもしれません。
ただし、このような考えのもと、宗教外の思想として神道を扱い、国家神道として政治の道具に利用された時代があったことは忘れてはなりません。
2019年05月04日
■火除け行事
昨日、5月3日(金)は、毎年行われている一年の火除けを祈願する火除け行事が、大興善寺で行われました。
参集される各区の皆さんが、本堂内に正座し、ご住職の護摩焚きとその後、分厚い経本で参集者の肩を読経とともに叩かれる行事です。
その後、火除けのお札を頂き散会となります。

■護摩焚きの様子(『基山町歴史的風致維持向上計画』より抽出)

■分厚い経本で肩を叩かれる参集者

■火除けのお札
この火除け行事、行政区によって開催日が違うようですが、その由来は、明治45年(1912)5月に記された『小松山霊地帳』という書物に、承和元年(834)に大興善寺が大火にみまわれた際、御本尊である十一面観世音菩薩が焼け残ったとされることに端を発し、明治初期に大興善寺のご住職であった玉岡誓恩師の頃、恩師が師と仰ぎ、基山(きざん)先生として知られた野田昌隆先生の創案で始められたと云われています。
大火の中でも焼け残った御本尊の威神力にすがり、一年の災いを祓いのけていただく行事なのです。
この火除け行事の後、参集した皆さんで親睦を兼ねて、大興善寺のつつじ園を舞台に「花見」が開催されています。
昨今の温暖化で花盛りの時期が早まり、20年前に比べると、近年は「残りの花」見という感があります。

■大興善寺の山門への石段
花といえば、大興善寺の西側には木花開耶姫様を御祭神とする熊野神社があります。


■木花開耶姫様が居られる石製神殿

別名、龍蔵権現と称されています。
「権現様」とは・・・・・・・・・・?
参集される各区の皆さんが、本堂内に正座し、ご住職の護摩焚きとその後、分厚い経本で参集者の肩を読経とともに叩かれる行事です。
その後、火除けのお札を頂き散会となります。

■護摩焚きの様子(『基山町歴史的風致維持向上計画』より抽出)

■分厚い経本で肩を叩かれる参集者

■火除けのお札
この火除け行事、行政区によって開催日が違うようですが、その由来は、明治45年(1912)5月に記された『小松山霊地帳』という書物に、承和元年(834)に大興善寺が大火にみまわれた際、御本尊である十一面観世音菩薩が焼け残ったとされることに端を発し、明治初期に大興善寺のご住職であった玉岡誓恩師の頃、恩師が師と仰ぎ、基山(きざん)先生として知られた野田昌隆先生の創案で始められたと云われています。
大火の中でも焼け残った御本尊の威神力にすがり、一年の災いを祓いのけていただく行事なのです。
この火除け行事の後、参集した皆さんで親睦を兼ねて、大興善寺のつつじ園を舞台に「花見」が開催されています。
昨今の温暖化で花盛りの時期が早まり、20年前に比べると、近年は「残りの花」見という感があります。

■大興善寺の山門への石段
花といえば、大興善寺の西側には木花開耶姫様を御祭神とする熊野神社があります。


■木花開耶姫様が居られる石製神殿

別名、龍蔵権現と称されています。
「権現様」とは・・・・・・・・・・?
2019年05月02日
■近世以前の天皇制
令和元年(2019)5月1日(水)午前0時から令和の世になり、上皇陛下の御世を引き継ぎ今上天皇が即位されました。
5月1日発行の新聞朝刊19面に「歴代天皇一覧」が「元号 歴史をたどる」として掲載されていました。様々なことを読み取ることができる貴重な資料で、第1代神武天皇から第126代今上天皇までの流れを見ることができます。
よく知られたこととして、8人の女性天皇(重祚された皇極天皇・斎明天皇と孝謙天皇・称徳天皇がおられるので、在位された天皇としては10名)がおられます。女性天皇が即位された経緯は歴史が物語るように、覇権を争う政争への対応や、前代(夫:天武天皇)の御世の治世安定を意図した対応(妻:持統天皇)、武家とのいざこざへの対応であったりと、ひとかたならぬ情勢が背後に伺えます。
奈良時代に定められた『大宝律令(後年定められた『養老律令』から推定)』には、天皇に関する規定はなく、天皇は法典を超越した存在として捉えられていたと解されています。また、近代(明治22年(1889))に入って『皇室典範』が定められるまで、近世以前の天皇に8人の女性天皇がおられることも、このことから理解できます。
また、我が町基山にゆかりのある天智天皇と天武天皇をみると、現在の今上天皇に継承されてきている皇統は、天智天皇に系譜をたどることができることが分かります。

■特別史跡基肄城跡にある「天智天皇欽仰之碑」
(昭和初期に、県内外からの寄付金をもとに、町民お一人おひとりの手でつくられています。)
話は変わり、伊勢山神社は天皇家の始祖である天照大御神様が祀られ、荒穂神社の御祭神である瓊瓊杵尊様は、第1代神武天皇の曾祖父に、つつじ祭りで賑わう大興善寺の横に鎮座する熊野神社には瓊瓊杵尊様の妻であり神武天皇の曾祖母にあたる木花開耶姫様が、仁蓮寺の八龍天神社の御祭神である彦火火出見尊様は、神武天皇の祖父に、小倉の老松神社の末社に祀られている鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)様は父にあたります。また、北奈良田・辻・向平原にある八幡神社の御祭神は応神天皇、木山口にある若宮八幡神社の御祭神は、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと 仁徳天皇)で、八幡神社の御祭神である応神天皇の皇子であることから、「若宮」の称が冠されています。
こうみてくると、我が町基山は、新元号「令和」に関わる万葉集はもとより、天皇家に関わる文化遺産が特別史跡基肄城跡も含め、ここかしこにあることが分かります。
我が町基山で、『万葉集』の原風景を体感し、今上天皇の御世が平和な世の中であることを願い、「令和」の世に幸あらんことを祈ります。

※私事ですが、明治・大正・昭和・平成、そして令和と「五元号」を生き抜いている祖母がいます・・・。
5月1日発行の新聞朝刊19面に「歴代天皇一覧」が「元号 歴史をたどる」として掲載されていました。様々なことを読み取ることができる貴重な資料で、第1代神武天皇から第126代今上天皇までの流れを見ることができます。
よく知られたこととして、8人の女性天皇(重祚された皇極天皇・斎明天皇と孝謙天皇・称徳天皇がおられるので、在位された天皇としては10名)がおられます。女性天皇が即位された経緯は歴史が物語るように、覇権を争う政争への対応や、前代(夫:天武天皇)の御世の治世安定を意図した対応(妻:持統天皇)、武家とのいざこざへの対応であったりと、ひとかたならぬ情勢が背後に伺えます。
奈良時代に定められた『大宝律令(後年定められた『養老律令』から推定)』には、天皇に関する規定はなく、天皇は法典を超越した存在として捉えられていたと解されています。また、近代(明治22年(1889))に入って『皇室典範』が定められるまで、近世以前の天皇に8人の女性天皇がおられることも、このことから理解できます。
また、我が町基山にゆかりのある天智天皇と天武天皇をみると、現在の今上天皇に継承されてきている皇統は、天智天皇に系譜をたどることができることが分かります。

■特別史跡基肄城跡にある「天智天皇欽仰之碑」
(昭和初期に、県内外からの寄付金をもとに、町民お一人おひとりの手でつくられています。)
話は変わり、伊勢山神社は天皇家の始祖である天照大御神様が祀られ、荒穂神社の御祭神である瓊瓊杵尊様は、第1代神武天皇の曾祖父に、つつじ祭りで賑わう大興善寺の横に鎮座する熊野神社には瓊瓊杵尊様の妻であり神武天皇の曾祖母にあたる木花開耶姫様が、仁蓮寺の八龍天神社の御祭神である彦火火出見尊様は、神武天皇の祖父に、小倉の老松神社の末社に祀られている鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)様は父にあたります。また、北奈良田・辻・向平原にある八幡神社の御祭神は応神天皇、木山口にある若宮八幡神社の御祭神は、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと 仁徳天皇)で、八幡神社の御祭神である応神天皇の皇子であることから、「若宮」の称が冠されています。
こうみてくると、我が町基山は、新元号「令和」に関わる万葉集はもとより、天皇家に関わる文化遺産が特別史跡基肄城跡も含め、ここかしこにあることが分かります。
我が町基山で、『万葉集』の原風景を体感し、今上天皇の御世が平和な世の中であることを願い、「令和」の世に幸あらんことを祈ります。

※私事ですが、明治・大正・昭和・平成、そして令和と「五元号」を生き抜いている祖母がいます・・・。
2019年05月01日
■新元号「令和」に寄せて
今日から、新元号「令和」が始まりました。
万葉集にある「梅花の宴」の序に記された文言から選ばれたことは、みなさんよく知るところです。天平2年(730)正月13日に大宰帥大伴旅人邸で開かれた宴席を舞台に、その時の情景を言葉として詠まれた歌の序文です。この序文の作者は記されておらず、序文冒頭に「天平二年正月十三日に、師の老の宅に萃まりて、宴会を申く。」と記されていることから、筑前国司であった山上憶良ではないかと考えられています。


■梅の花咲く政庁跡
この宴席に座し、梅花の宴に寄せた歌に
「梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり」と、梅花の盛りのように宴席に参集した人々も今が盛りだと歌った歌があります。筑後守葛井大夫が歌ったとされ、宴席の一幕を盛り立てた歌として知られています。
正式には、筑後国の国司葛井連大成で、朝鮮の百済系の渡来人とされ、大宰府の一国である筑後国を統括する役目を担っていました。この、葛井連大成は、大伴旅人が都へ戻ることが寂しいと、その思いを歌った歌「今よりは城の山道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを」を歌った、その人です。ここに出てくる「城の山道」が、我が町基山の宝である特別史跡基肄城跡の中を通ったであろう道とされています。
万葉集筑紫歌壇が寄せた多くの歌が、『万葉集』にはおさめられています。我が町基山もその舞台として記されていることを知り、『万葉集』の原風景を観る・感じることができる「贅沢」な場所であることを体感してください。

■大宰府政庁と基肄城
(手前右:大宰府政庁跡、左上方:特別史跡基肄城跡)
今日、午前、新天皇即位の儀式が催行されます。「大宰府」が正式には「おおみこともちのつかさ」、天皇の詔を大宰府管内の国々に伝える府であることも、思い出しておいてください。「天皇」といえば、歴史上の人、親世代の方という印象がありましたが、新天皇の御歳には、同世代観を感じます。
「令和」の新しき世の中が始まります。
どんな世の中になるのでしょうか。過去は過ぎ去った時ですが、未来は私たちの手に託されています。よき世の中になるよう、みなで進んで行きましょう。
※個人的には、昭和から平成へ移り行く時は「吉野ヶ里フィーバー」の渦中に、そして平成から令和へ移るこの時は「令和」フィーバーの渦中にいることが不思議な縁を感じています。両方とも、担う役柄が「駐車場係」とは、なんとも成長していません。
万葉集にある「梅花の宴」の序に記された文言から選ばれたことは、みなさんよく知るところです。天平2年(730)正月13日に大宰帥大伴旅人邸で開かれた宴席を舞台に、その時の情景を言葉として詠まれた歌の序文です。この序文の作者は記されておらず、序文冒頭に「天平二年正月十三日に、師の老の宅に萃まりて、宴会を申く。」と記されていることから、筑前国司であった山上憶良ではないかと考えられています。


■梅の花咲く政庁跡
この宴席に座し、梅花の宴に寄せた歌に
「梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり」と、梅花の盛りのように宴席に参集した人々も今が盛りだと歌った歌があります。筑後守葛井大夫が歌ったとされ、宴席の一幕を盛り立てた歌として知られています。
正式には、筑後国の国司葛井連大成で、朝鮮の百済系の渡来人とされ、大宰府の一国である筑後国を統括する役目を担っていました。この、葛井連大成は、大伴旅人が都へ戻ることが寂しいと、その思いを歌った歌「今よりは城の山道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを」を歌った、その人です。ここに出てくる「城の山道」が、我が町基山の宝である特別史跡基肄城跡の中を通ったであろう道とされています。
万葉集筑紫歌壇が寄せた多くの歌が、『万葉集』にはおさめられています。我が町基山もその舞台として記されていることを知り、『万葉集』の原風景を観る・感じることができる「贅沢」な場所であることを体感してください。

■大宰府政庁と基肄城
(手前右:大宰府政庁跡、左上方:特別史跡基肄城跡)
今日、午前、新天皇即位の儀式が催行されます。「大宰府」が正式には「おおみこともちのつかさ」、天皇の詔を大宰府管内の国々に伝える府であることも、思い出しておいてください。「天皇」といえば、歴史上の人、親世代の方という印象がありましたが、新天皇の御歳には、同世代観を感じます。
「令和」の新しき世の中が始まります。
どんな世の中になるのでしょうか。過去は過ぎ去った時ですが、未来は私たちの手に託されています。よき世の中になるよう、みなで進んで行きましょう。
※個人的には、昭和から平成へ移り行く時は「吉野ヶ里フィーバー」の渦中に、そして平成から令和へ移るこの時は「令和」フィーバーの渦中にいることが不思議な縁を感じています。両方とも、担う役柄が「駐車場係」とは、なんとも成長していません。