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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2015年11月30日

楠の木さん

 基山(きざん)を守ってこられた6区丸林地区にある集落センター南側(背面)に、通称「楠の木さん」と地域の方々が呼ぶ石製の祠が建っています。祠には「明治廿三年九月」に「奉寄進」と記されており、明治23(1890)年の9月に祠が寄進されたことが分かります。

■楠の木さん


 この「楠の木さん」とは、何をお祀りされているのでしょうか?
 丸林在住の方々からの聞き取りでは、「楠の木さん」は、丸林集落の西側にある字「天台寺」という場所にあり、祠とともに大きな楠の木がたっていたと伝えられています。この楠の木が近くの畑に日陰をつくっていたことから、ある時切り倒し、防虫剤の原料として樟脳屋に売られ、祠に虫がつくということから現在地に移されました。また、ある方は、昭和14(1939)年頃、祠が日陰になるからと大楠を切り倒したところ、地域の役員数人が天然痘で亡くなったという言い伝えも残されています。
 「楠の木の天神(ていじん)さん」と呼称され、この石製の祠にも梅鉢の紋章が記されています。このことから、天神様、菅原道眞公が御祭神と土地の方々は考えられていますが、聞き取りを深めていくと、実は定かではありませんでした。


 「楠の木さん」の御祭神を考える上で、貴重な記録が残されています。明治12(1879)年に作成された『基肄郡神社明細帳』に「天台寺 楠 天神神社」として、この「楠の木さん」のことが記されています。そこには、「大山祇大神」様が御祭神として記されています。大山祗大神様といえば、荒穂神社の御祭神として知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)様と結ばれる木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父として知られている神様です。山の神様として古事記、日本書紀にも記され、古くから日本では林業の神様、田の神様として崇拝されてきました。

 「ていじんさん」「でんじんさん」から、漢字が当てられ「天神」様に変じる例は、基山町内はもとより筑紫野市にもあり、元は「田の神様、田神様(でんじんさま)」が祀られていましたが、その後「でんじんさま」→「天神様」→「菅原道眞公」に変わっていきます。

 いずれにしても、お祀りされている地域の方々の気持ちが何よりも大切です。文道の神・菅原道眞公を祀る祠として、山の神である大山祗大神様をお祀りする祠として、その意味を踏まえつつ大事にしたいと思うことが何より大切なことです。これが学術的価値を求める文化財と、地域の方々が未来へ伝えていきたいと思う文化遺産との大きな違いと言えます。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 11:03Comments(0)基山の文化遺産

2015年11月29日

基山町文化遺産ガイド活動報告

 当会も支援している基山町文化遺産ガイド講座の皆さんが、本日29日に太宰府発見塾の塾生の皆さん88名を5班に分け、基山(きざん)にある文化遺産を解説しました。
 ガイド講座の皆さんは、10月2日に基山町で開催された第5回古代山城サミットをかわきりに、早4回のガイド活動を展開しています。
 本日、ガイド講座の方々全てが、「文化遺産ガイド」を務め、見事な「解説力」で解説員制度の本家である太宰府の皆さんに喜んでいただきました。


 今回の活動をスタートとして一歩、歩みを進めた方、回数を重ねて「自らの言葉」で解説をされた方、何事も一歩からです。今日の「緊張」を忘れず、日々「進歩」していきましょう。
 多くの方々に解説することで、私たちでは気付かない「素朴な疑問」として今日いただいた宿題もいくつかあります。皆で取り組んでいくことで、「皆の知識」として情報の共有化を同時に進めていきたいと思います。よろしくお願いします。

 何はともあれ、今日にむけて取り組まれた「知識の蓄積」を、楽しみつつ進めていきましょう。お疲れさまでした。

■参画された皆さん
【衣装は、創作劇「こころつないで」の劇中で使用された衣装です。ガイドメンバーのユニフォームとして、ガイドを受けられた町外の皆さまに定着しつつあります。】(まん中のお子さんは、記念撮影時の突然の飛び入りです。)

 結びになりますが、私たちの解説を、温かく見守っていただいた森塾長をはじめ、太宰府発見塾の塾生の皆さま、昼食の場をご提供いただいた瀧光徳寺の関係者の皆さま、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:39Comments(0)参画事業

2015年11月26日

遺跡で確認される建物の大きさ

 今年、築造1350年を迎えた基肄城跡には、南水門跡をはじめ基肄城を表現する多くの防御施設が確認されています。その中の一つに、防御すべき施設として40棟を超える建物跡が確認されていますが、これらの建物の大きさを表現する方法に、「■間×■間」という柱間の数で表現します。基肄城が築かれ、再整備された飛鳥時代から奈良時代の建物跡は、正方形・長方形の規格を持っており、長方形であれば短い辺を梁、長い辺を桁で表現し、「桁行■間×梁行■間」の規模の建物と表現しています。また、柱間の距離を計測することで、入口の位置や一見同一の建物と考えられるものでも、二棟の建物があったことが分かるなど、柱間の距離をmm単位で計測することで、新たな所見が見えてくることもあります。



 基肄城跡にある最も大きな建物は、基山山頂の展望台から東におりた場所にある「大礎石群」で、桁行10間×梁行3間の建物として知られています。柱間について、よくお尋ねがありますが、基肄城跡の建物については、礎石は確認されていますが、木柱そのものが残されていないため、明らかにすることができません。礎石の真ん中付近を柱があったと仮定して、柱間の距離とすることはありますが、あくまでも仮定での柱間の距離ということになります。大礎石群の柱間は、九州大学名誉教授であった鏡山猛先生の実測によると、桁行が2.78m、梁行が2.94mを測ります。ただし、尺記載法をメートル法に換算していますので、現代の技術で再度計測する必要があるでしょう。

 最もいい条件下では、発掘調査で埋没していた礎石や、掘立柱建物の柱を据えた穴を注意深く観察することで、木柱や木柱があった場所を示す痕跡を確認することができます。また、木造建築の利点とでもいえる柱ごとに修理回数が異なっている痕跡を確認することもできます。

 昨今、礎石の縁を意図的に掘り起こした跡や、礎石そのものを露出させるような「悪戯」を見かけるようになりました。このような行為は、得られるはずだった過去の情報を、雨ざらしにすることで失うことにつながります。個人の興味が記録として多くの方々に共有されない残念な行為となりますので、厳にやめていただきたいと思います。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:23Comments(0)基山の文化遺産

2015年11月23日

『こころつないで』最終公演

 当会も参画している基山町立小中学校合同創作劇『こころつないで 基肄城に秘められたおもい』は、12月5日(土)に大野城市まどかぴあ大ホールを舞台に最終公演をむかえます。

■「こころつないで」の一場面

 特別史跡基肄城跡南水門の保存修理事業開始に先立って開催された「ありがとう水門セレモニー」。この中で演じられた、幼稚園生による「基肄城築造の物語」劇をきっかけとして誕生した『こころつないで』。

 これまで4回にわたる公演は、多くのドラマを、その時々に生みながら、参画した子どもたちのみならず、おとなたちの成長をも生み出してきました。

 さぁ!最終公演にむけて『こころつないで』いきましょう。


※公演観覧には、事前申し込みが必要です。
 大野城市役所 自治戦略課(092-501-2211)へお尋ねください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 08:00Comments(2)参画事業

2015年11月21日

基山町文化遺産ガイドボランティア活動支援

 本日、当会も活動支援している文化遺産ガイド3回目となる活動を、基山(きざん)を舞台に行いました。要請してくださった団体は、大野城市考古学講座の受講生の皆さんで、水門からはじまりタマタマ石から通天洞までを解説しました。

■水門での解説の様子
 ガイドの皆さんも、「ガイド一年生」とは思えない安定した解説で、一回一回の経験の積み重ねが、ガイドする姿に表われています。
 10月に開催された第5回古代山城サミットでのデビューから2ヶ月弱で3回の「出動要請」で、ガイドに参加されているメンバーも、大変な中にも新たな発見・知識の習得が確実に実を結んでいるようでした。

■万葉集説明板の前での解説
 ガイド講座に参加している皆さんに、「話す(解説する)」という行為が、新たな自分の「無知」の発見につながることを体感していただきたいものです。「無知の知を知る」ことこそ、新たな飛躍の一歩につながります。「1年生の果敢さ」は、「1年生」しか持ち得ない「特権」です。どうか、ガイド講座に参加している皆さん、「恐れず」「傲らず」、「無知の知」を体得することの喜びを感じていただければと思います。

 さあ、勇気を出して「解説者」への一歩を踏み出してください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 23:45Comments(0)活動・報告日記

2015年11月18日

第1回肄諸煮会開催

 11月15日の日曜日に、当会の有志(というよりは、思いを伝えたい方々)による、第1回いも煮会が開催されました。全ての会員の皆さまにお伝えできずに申し訳ありません。第2回以降は、会員の皆さまにお伝えいたしますので、この場はお許しください。
 発会者の弁、「いつも大変な思いをしていただいている女性陣を慰労したい!。」というお気持ちから、第1回の会が開催の運びとなりました。

 第1回と銘打つからには、第2回もあるということで、会員の皆さま、特に女性会員の皆さま、癒やしの場として、日頃のストレス発散の場として育てていただきたく、お願いいたします。
 会場は、江戸時代の縁起によると、平安中期(菅原道真公がご逝去された時期)に勧請されたと伝えられる城戸の老松宮です。御本殿の脇には飛鳥時代(基肄城築造直前)に築かれた古墳の石室があるお宮です。
 ここに隣接して建つ、6区公民館を舞台に第1回いも煮会を開催しました。
 お宮・公園・公民館が隣接して建つ、この場の意味の一つを、今回の「いも煮会」で発見しました。子ども達が遊ぶ公園と、大人が集う場が離れてしまっている今日、全てが「集う」この老松宮は、片方で子ども達が遊び、片方で大人達は宴を開く。子ども達と大人が共存する空間を、この老松宮は実践してくれていました。

 「大人はおとな」「子どもはこども」と分離する、家族も個々人の個性を大事にするという「大義」の上に孤立化している昨今、行き着く先はどうでしょうか。
 「人は一人では死ねない。」どこかで他人を煩わせることになる日本社会の現実を、直視し、「誰かに迷惑をかけて生きるのが人の社会なのだ。」、「お互い様(ぎすぎすした社会から離脱し、互いを思いやる社会)」ということを、もうそろそろ自覚する時ではないでしょうか。
 第1回いも煮会でしたが、またまた、多くのことを学ぶことができました。
 発会を思い立っていただいた方々に、心より感謝申し上げます。
 第2回には、会員の皆さまの参加を呼びかけますので、当会のモットー、自立して皆で集いましょう。
 発会者の弁を胆に命じて・・・・・・。

 ところで、「いも煮会」の当て字で、基肄城・基肄郡の「肄」と諸々の「諸」と「煮」で、基肄城・基肄郡の諸々の者どもの「煮られる(こなされる)」場として、肄諸煮会と勝手に命名しました。すみません。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 00:46Comments(0)活動・報告日記