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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2023年05月31日

■大興善寺の古さを物語る石塔(その2)

 そしてもう一つ、鎌倉時代後期の作と考えられる石塔の一部が、本堂脇にひっそりと置かれています。あまり目立たず置かれているため、多くの方々は他の石塔に注目されていると思います。



●水輪【五輪塔の一部】

 この石塔の部材は、五輪塔の水輪と呼称される部材で、本来五輪塔は上から、空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の5つから構成されることで五輪塔と呼称されています。ここにある水輪は、阿蘇の凝灰岩製で、水輪表面には梵字仏が彫られ、水輪内部を削り込み、何かの容器として使えるように造形されています。


●五輪塔の各部材名称

 何を入れるのか、そのことを知ることができる手がかりが、太宰府市白川にある横岳山崇福寺跡(おうがくさんそうふくじあと)とされる横岳遺跡で出土した五輪塔埋納遺構にあります。ここで発見された五輪塔の多くが、水輪の内部を容器として使えるように造形され、その中には火葬骨が入れられていました。


●横岳遺跡【太宰府市教育委員会(1999)『横岳遺跡』より抽出】

 大興善寺にある、この水輪も恐らくは蔵骨器としてつくられ、横岳山崇福寺跡がある太宰府の四王寺山南麓に展開する寺院群と同じように、大興善寺の周りの丘陵に造られた墓地にあったのではないかと推測できます。大きさから推測すると、大興善寺を鎌倉時代に支えた階層の石塔と考えられます。
 これまで紹介してきた宝篋印塔や層塔が人々を供養するための供養塔で、この五輪塔は被葬者を弔うための墓石といえます。

 本堂の脇にひっそりと置かれた水輪。
 機会があったらご覧ください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:39Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

2023年05月30日

■大興善寺の古さを物語る石塔(その1)

 再び、大興善寺の話題に戻ります。

 ここまで紹介してきた大興善寺の宝篋印塔は、江戸時代後期の作でした。
 本堂向って左側にある宝篋印塔も、隅飾りの形から同じ時代の所産だと考えられ、現在の大興善寺にある石塔群が江戸時代のものばかりかと思われますが、山門を抜け寺域に入って右側に、「小松内府の塔」と記され「平重盛公の遺髪を埋めた供養塔」が五重の石塔として建っています。伝承だけをみると「平重盛」公ですので平安時代後期以降のものといえますが、詳細は定かではありません。最上部の相輪部分のみが異質に見え、別の石塔の部材が置かれている後補の可能性がありますが、一方で積層する五重塔部分は積み替えによって立ち姿のバランスが崩れていますが、軸部と屋根を一対の一石でつくり出し、積層させるという形態を持ち、屋根部の意匠が四隅を跳ね上がらせる形状ではないことから、鎌倉時代後期の所産である可能性があります。


●大興善寺の層塔

 大興善寺の縁起は、奈良時代の養老元年(717)に僧行基によって開山されたとされ、承和14年(847)に慈覚大師円仁によって再興されたと伝えられています。また、国指定重要文化財に指定されている木造多聞天立像、木造広目天立像が平安時代後期の作で、大興善寺の古さを物語っていますので、この層塔も宝篋印塔よりは古く、大興善寺の古さを物語る物証といえます。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 21:19Comments(0)基山の文化遺産

2023年05月29日

■第7回きやま創作劇へむけた話合い

 本日午後6時から、第7回きやま創作劇の取組へむけた話合いが、当会も参画している民間サイドの実行委員会メンバーが集まり行われました。



 コロナ禍が収束しつつあるとはいえ、未だ終息まで至っていないため、参画者の皆さん個々の自立性を背景に進めることが確認されています。

 今日は、あくまでも民間サイドでの一定の見解の整理を行ったにすぎません。これから、町役場担当課を加えた実行委員会にて議論を重ね、第7回きやま創作劇公演へむけた取組へとつなげていきます。

 詳細が決まりましたら、本ブログをはじめ関係する情報網を「フル活用」しお知らせいたしますので、「気づき」の網を各所に常に張り巡らせておいてください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 21:05Comments(0)活動・報告日記

2023年05月29日

■宝篋印塔(その2)

 大興善寺にある基山町指定重要有形文化財の宝篋印塔は、江戸時代後期の作ですが、宝篋印塔のはじまりの形からは大きく変化しています。


●大興善寺の宝篋印塔


●鎌倉時代後期から室町時代初期の宝篋印塔

 鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)の作と云われる宝篋印塔の形と比べていただければ、その違いがご理解いただけると思います。
 特に顕著な形が、時代の下降とともに塔を表現する「階段状の高まり」を囲うように四隅にある隅飾りが大きく開く様が見てとれます。


●宝篋印塔の部材名称

 時代をおってモノの変化を追うことで、そのモノが持つ当初の「意味」から、社会の変化による人々の想いや「意味」の変化・消失によって、モノの形は変化していきます。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 07:06Comments(0)基山の文化遺産

2023年05月28日

■宝篋印塔(その1)

 基山町にある大興善寺、つつじ寺、最近では秋の紅葉が美しいお寺として、多くの方々に御出でいただいています。


●大興善寺

 この大興善寺には、基山町指定重要有形文化財に指定された宝篋印塔があります。
 初夏のつつじ花見の季節に、つつじ園(契園)入口から階段をのぼりますが、その階段の最も上段に聳え立っている石塔が、この宝篋印塔です。


●大興善寺の宝篋印塔

 享和2年(1802)、江戸時代後期の作で、肥後玉名の名僧豪潮律師によって天明の大飢饉による災難を鎮め鎮魂と諸国安寧を願う気持ちから建立され、大興善寺の宝篋印塔を最初として全国二千を超える石塔を造塔されています。
 その造塔の由来の中に「八萬四千大願」と見え、この「八萬四千」という数値は、釈迦の教えとしての数値であるとともに、インドの阿育王(アショカ王)が釈迦の遺骨(仏舎利)を安置するために築いた塔の数とも言われています。


●アショカ王造のサンチーの仏塔(インド)

 また、この阿育王の八萬四千塔を造塔した故事にならって、呉越国王銭弘俶が造塔した「阿育王塔」、日本では「銭弘俶八萬四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう)」と呼称されている塔にならい「八萬四千」という数字が用いられています。実際のところ「八萬四千」という数字は「無数」を表現するものであり、銭弘俶王も数字どおり造塔したかは定かではないとされています。


●銭弘俶塔 10世紀【奈良国立博物館HPより】

 この銭弘俶八萬四千塔の形によく似ているものが、宝篋印塔で、その起源とも云われていますが、銭弘俶塔に宝篋印塔のような隅飾り内に「階段状の高まり」がないことから、奈良にある史跡頭塔(ずとう)のような塔婆を須弥壇にのせたものとの解釈もあります。


●宝篋印塔の部材名称

銭弘俶塔:奈良国立博物館HPにて検索ください。
史跡頭塔:奈良県HPにて検索ください。
 ※奈良県HPでは、「頭塔」を「ずとう」と表記されています。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 12:30Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

2023年05月27日

■当会受託事業第3弾!

 昨年度に引き続き、基山町教育委員会からの受託事業として、今年度が基肄城跡にとって記念すべき年度であることを紹介する企画展を、当会にて受託し実施することになりました。

 過日も本ブログにて紹介しましたが、今年度、基肄城跡顕彰記念碑などの竣工90周年、そして特別史跡に指定されて来年の3月20日に70周年を迎えます。

 この記念すべき年度である令和5年度に、これらを広く知っていただくための企画展を、町教育委員会主催にて、来月6月6日から7月23日まで、基山町立図書館郷土資料コーナーで開催されます。この企画展の展示企画作成、展示パネル作成、展示資料選択などを受託し、郷土資料コーナー展示室での展示作業ならびに撤収までの諸作業を受託しています。



■「基山(きざん)」

 当会では、これまで基山町史編さん事業展として平成19年度(2007)から「きやま-みんなが守ってきたきやまー」展を基山町教育委員会との共催で実施してきた実績が認められ、今回の受託事業となりました。

 特別史跡基肄城跡の紹介から、基肄城跡を史跡指定まで押し上げた我が町基山の小林山専念寺ご住職 久保山善映先生の紹介や、古写真を交えた顕彰碑などの紹介を行っています。さらに基肄城跡がある「きざん」を伝える官民協働の取組や、「きざん」にある文化遺産調査などを紹介しています。
 
 基肄城跡がある基山でしか知ること・観ることのできない展示となっていますので、是非ご覧ください。


■特別史跡明示石標から天智天皇欽仰之碑をのぞむ


■天智天皇欽仰之碑

 なかでも、天智天皇欽仰之碑の銘板の痕跡はあれど、銘板そのものを見ることができません。脱落したのか、最初からなかったのか想像は膨らみますが、銘板があった時の資料(絵葉書)を見る限り、最初からなかったということは、どうも言えそうにないことが分かります。この絵葉書資料をはじめ天智天皇欽仰之碑の図面なども展示しますので、併せて御覧ください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 17:12Comments(0)基山の文化遺産活動・報告日記お知らせ

2023年05月21日

■今年度は、特別史跡基肄城跡にとって二つの記念すべき年

 令和5年度(令和5年4月1日から令和6年3月31日)は、特別史跡基肄城跡にとって、二つの記念すべき日を迎えます。

 一つは、間近に迫った来月6月10日に、基肄城跡顕彰のために我が町基山の先人たち、中でも小林山専念寺ご住職であった久保山善映先生が中心になって進められた「天智天皇欽仰之碑」「通天洞」そして平成6年に残念ながら解体されてしまった展望所が建てられ、除幕式が行われた昭和8年(1933)6月10日から数えて90年の節目を迎えます。


●天智天皇欽仰之碑

●竣工記念写真


●通天洞

●展望所跡【平成6年に解体されました。】

●ありし日の展望所

 二つ目は、昭和12年(1937)12月21日に史跡指定され、不動産としては国宝にあたる特別史跡に格上げ指定された昭和29年(1954)3月20日から数えて来年3月20日で70年を迎えます。


 それぞれ、基肄城跡内に顕彰する建物が今も遺され、「今」を生きる私たちに、その意味を伝えようとしてくれています。私たちの眼前にある多種多様な文化遺産を、その意味に意識を傾け、後世に伝えていきたいものです。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 15:15Comments(0)基山の文化遺産