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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2018年08月30日

■「みゆき」の季節が来ます!

 時間が経つのは早いものです。
 荒穂の神さまが、我が町基山を御行幸(ごぎょうこう・みゆき)される、御神幸祭の季節がやってきます!
 私たちは、一年の無事と五穀豊穣を荒穂の神さまに感謝し、荒穂の神さまは、神輿にのり私たちの暮らしぶりを「見聞」される御神幸祭です。
 一年前に集った皆さんが、また集う。荒穂神社の御神幸祭を「依り代」として、多くの方々が集い、語らい、笑い、そして支え合う。この一年という時間の中で、様々な出来事がありました。残念なことに集えなくなった方々もおられます。その方々を思い、みんなで神輿を担ぎ、荒穂の神さまの御行幸を支える。そうやって長い年月、荒穂の神さまは、私たちの生活を見守ってくださっているのだと思います。

 さあ、町内各地で御神幸祭の準備が始まります。
 「ドン・キャン・キャン」「ドン・キャン・キャン」の音が、町中に響き渡る。祭りの季節を、稲穂の香りとともに耳で、目で感じてください。
 荒穂神社の御神幸祭に、また、皆さん集い、笑い、語り、そして楽しみましょう!
 それが、荒穂の神さまが一番喜んでくださることだと思います。



●今年の御神幸祭ポスターは、「獅子組」に務めていただきました!

※これからのポスターは、個々の奉納芸能や祭りに関わっていただいている催行者の皆さんをメインキャラクターとし、前面に出ていただきます。来年は、どの奉納芸能や催行者の方々がメインキャラクターを務めることになるでしょうか?お楽しみに!(このポスター作成には、当会も携わっています。)

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:22Comments(0)基山の文化遺産

2018年08月28日

■琉球大の学生、参上!

 現在、基山町教育委員会によって、夜水遺跡の埋蔵文化財記録調査が町内で進められています。
 炎天下の中、野外での発掘調査は過酷な作業です。
 そんな中、琉球大学法文学部考古学教室と同大学大学院博士前期課程の合わせて8名の学生さんたちが、若い力と知恵を持ち寄って参画してくれています。今回で二回目です。
 暑い中、皆さん元気に「飛び跳ね」現場を駆け巡ってくれているようです。埋蔵文化財の記録保存作業です。ひとつ一つが大事な記録ですので、「失敗」無きよう、でも「失敗した?」ということを分かって、何が失敗だったのか理解しつつ作業を行い、今後、失敗をしないよう学生のうちに、た~くさん「失敗した」経験を積んでいってください。

 どんなに偉い先生でも見ることができないことが、学生さんのみならず作業をしている皆さんには「特権」として与えられています。それは、当時の色を見ることができるという「特権」です。銅製品は、錆びる前の色を、植物の葉は緑色を、埋まった時そのままの色を見ることができるのは、掘っている作業員さんの「特権」です。それは、出土した瞬間に酸化が急速に進み、「浦島太郎」のごとく、埋まった時から出土した時の時間を急速に積み重ねるかのように、銅製品は緑青(ろくしょう)という銅製品の錆び色に、植物の緑色は茶色に変色してしまいます。「あっ!出ました。」と調査担当者の職員に言った瞬間から色がみるみる内に変化し、職員がそこにたどり着いた時には、緑青や茶色に変色した姿に変わっているのです。

 貴重な経験ができるのは、掘るという作業を行っている皆さんの「特権」です。でも、そう簡単にみられるものではありません。その時がくるまで謙虚に地道に、そして昔の人の歩みを明らかにするという気持ちで作業を行ってください。神様・仏様は必ず見ていてくださいます。・・・・・・・・その時は、突然やってきます。その時がくるのを、陰ながら祈ってます!

【琉球大学学生さんたちと当会・基肄かたろう会との合同懇親会の様子】

●当会理事長からの挨拶




●自己紹介の様子
(質問攻めにする会員諸氏。学生さんたち、ごめんなさい)

※基山町合宿所で懇親会を行いました。品数を少なくして質を上げていただくなど、臨機対応していただき、会も盛会に終わることができました。合宿所食堂のシェフ、ありがとうございました!また、伺います!
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:38Comments(0)活動・報告日記

2018年08月24日

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その6)

 平成30年7月豪雨災害で被災し、周辺に部材が散乱している住吉神社は、復興へむけた取組が始まっています。
 過日に記しましたが丸林集落の方々が毎日行っていたお潮井採りと家々のお浄めの行事は、堆積土によって水門が水を湛えないものの、上流に採水の場を移し再開されています。清めの場を守護されていた住吉神社の復興が一日も早く待たれるところです。


●住吉神社とお潮井採りの場

 物理的、心情的なご負担を考えると、軽はずみに言えることではありませんが、願わくば、国・県・町に全てを依存し復興されるのではなく、住吉神社を支えておられる氏子の皆さまの住吉さんへの気持ちを絶やさないためにも、行政機関と一緒に復興をしていただきたくお願いいたします。それこそが、小森前町長が掲げられた官民協働の実践といえるでしょうし、何よりも丸林集落の諸先輩方が、子孫の安寧のために奉納された石製神殿、鳥居、狛犬、灯篭、そしてお伊勢参り記念の橋に込められた思いを、みんなでつないでいっていただくことが、皆さまの絆が切れない一歩ではないかと思います。
【奉納橋】






 東日本大震災以来、皆でつながり支え合う「絆」が叫ばれていますが、行事や事物などの文化遺産は、守っていく、継続していくためにあるのではなく、文化遺産を依り代(よりしろ)として皆で集うためのモノではないかと思う今日この頃です。

※現在、基山町では住吉神社を含む特別史跡基肄城跡の修理事業が検討されています。町の財政をできるだけ圧迫しない形での手法を、様々な手立てから考えられているようです。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 05:57Comments(0)基山の文化遺産

2018年08月21日

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その5)

■住吉三神と神功皇后伝説と基肄城

 住吉三神と天皇家のつながりは、『日本書紀』巻第九 神功皇后 摂政前紀に記されています。ここに記されている神功皇后は、2世紀から3世紀に生きたとされる皇后で、夫は仲哀(ちゅうあい)天皇、そして子は応神(おうじん)天皇とされ、九州南部にいた熊襲討伐のため九州に来た際、熊襲より財を持つ韓半島の新羅を打つべしという神託を住吉三神から受けたとされるものです。夫である仲哀天皇は、この神託を無視したことから絶命し、この神託に従って韓半島へ向かった神功皇后は、労せずして新羅を征伐したと『日本書紀』に記されています。また『日本書紀』巻第九には、新羅征伐の後、時を経ずして百済と高句麗もほどなく降伏したと記されています。この時、降伏した三韓は、新羅、百済、高句麗とされていますが、神功皇后が生きていたとされる時代からは、その前身である馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を指し、高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征伐とも考えられています。
 そもそも、神功皇后自体の実在性も議論が分かれており、韓国史上では新羅征伐は伺えますが、残りの国々の征伐記録は見えず、『日本書紀』巻第九自体の信ぴょう性も疑問視されています。
 いずれにしても、『日本書紀』が記された奈良時代の歴史認識に基づき、天皇家と住吉三神の関係を知り得る貴重な記録であり、また、特別史跡基肄城跡が築造された経緯である韓半島の国々に関係するなど、天皇家と住吉三神、そして基肄城へのつながりを想像させる物語だといえます。

 これまで記してきたことを整理すると、住吉神社が特別史跡基肄城跡の南水門横にある理由は、筒を想像させる南水門、そして筒の字を持ち、かつこの場が町内の集落を清めるお潮井を採る場であることから清浄を保つための水の神である住吉三神を祀ったことに由来すると考えられます。

●被災前の住吉神社

 その縁起は、奉納神殿や鳥居から江戸時代まで遡ることは確実で、石垣修理に伴って実施された埋蔵文化財調査成果からは、石垣南側の平地から鎌倉時代の食器類が多量に出土していることを考えると、この頃まで遡る可能性を想像させます。


●住吉神社神殿(天明四年(1784)三月銘の石製神殿)

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:28Comments(0)基山の文化遺産

2018年08月17日

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その4)

■筒の志をひ
 「筒の志をひ」にある神社、住吉神社。この住吉神社の御祭神を知ることで、「筒」が持つもう一つの意味を知ることができます。

●被災前の住吉神社

 ご存知の方もおられることと思います。住吉神社の御祭神は、住吉の三つの神(通称 住吉三神)と呼ばれ、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、上(表)筒男命(うわつつのおのみこと)の三人の神さまなのです。住吉三神は、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の国生みの神々の物語に遡り、黄泉国(死の世界)に旅立った伊邪那美命を呼び戻そうとした伊邪那岐尊が果たせず、その際に黄泉国の穢れを清めるために禊ぎを行った際に、川の流れの深いところで生まれたのが底筒男命、中ほどで生まれたのが中筒男命、水面で生まれたのが上(表)筒男命なのです。

 そう、この三人の神様に共通する文字こそが「筒」だったのです。
 南水門の造形としての「筒」と住吉神社の御祭神としての住吉三神に共通する「筒」が、筒川の由来になっていました。

●住吉神社とお潮井採りの場、そして南水門

 造形としての「筒」が先か、御祭神としての住吉三神の「筒」が先かは、定かではありません。また、分かりましたらお知らせします。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 06:47Comments(0)基山の文化遺産

2018年08月16日

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その3)

■筒の志をひ
 特別史跡基肄城跡の南水門には、住吉神社がお祀りされています。
 横を流れる川を丸林集落の方々は、「筒川」と呼称しています。「筒」から想像できるイメージは、文字通り細長い「筒」を想像しますが、それと同じイメージを描けるものが、南水門であったと考えられます。
 江戸時代の文化九年(1812)に模写されたと伝えられる『太宰府旧蹟全図 南』という絵図が現存し(福岡市博物館蔵)、そこには基肄城跡を描き、南水門のことも「筒ノ内 横五尺高四尺」と記され、水門の姿を「筒」と表現しています。この絵図からは、南門跡という記述も見え、現在、南水門に南門があったとされていますが、今、天智天皇欽仰之碑が建つあたりに「南門」という記述がなされており、現在の考えを再考する必要性を伺わせます。

■太宰府旧蹟全図 南(福岡市博物館蔵)より抜粋

■太宰府旧蹟全図 南書き下し図(『太宰府市史 環境資料編』より抽出)

 話を南水門に戻すと、この南水門には石塁らしき描写がありますが、筒川の部分には石塁は描かれておらず、江戸時代の文化年間頃には既に失われていたことが読み取れます。
 この「筒川」の「筒」には、物理的造形としての「筒」からきていると考えられます。
と記してこの話は終わりではありません。もう一つ、神の名からくる「筒」があるのです。それが、ここに住吉神社がある所以につながってきます。

 つづく・・・・。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 07:00Comments(0)基山の文化遺産

2018年08月15日

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その2)

■筒の志をひ
 特別史跡基肄城跡の南水門横にある住吉神社の話をする前に、丸林集落の西端、最も基山(きざん)に登った三叉路に、集落に災いを入れないために置かれる「疫神」が立っているのは目につきます。一方で、その横に平べったい石が立っているのは、あまり知られていません。
 その石には、水門から流れ出る水や砂が担う役割を知る上で、貴重な情報が記されています。

■右手石垣の上に「疫神」、立て看板左手下に追分石

 表面をよくみると、「左 筒の志をひ むさし  右 はるだ」と記されています。書かれている内容から、追分石と呼ばれる道しるべの石であることが分かります。

■「左 筒の志をひ むさし  右 はるだ」

 文字通り、右へ行くと筑紫野市原田、かつての原田宿へたどり着きます。では、左へ行くとどこへ行くと記してあるのでしょう。「左 むさし」は、現在の筑紫野市武蔵、武蔵寺(ぶぞうじ)がある地域を指していると考えられます。では、もう一つ、「筒の志をひ」はどこを指しているのでしょうか?これが、実は今回のテーマである住吉神社横の南水門とお潮井採りの場である水路を指しているのです。まず、「志をひ」は、読みから「しおい」と読め、「お潮井」を意味しています。では、「筒」とは何なのでしょうか?南水門横を流れる川は、高原川の源流で丸林集落の方々からは「筒川」と呼ばれています。そう「筒」は、この川の名称「筒」を意味していると考えられます。
 丸林集落では、水門から出る水を汲み、家々のまわりを清めるお潮井採りの行事が行われています。また、町内の小原集落では、田植え後のガンジョウジ(願成就)の際に、お潮井を採る場所をお御籤(おみくじ)で決め、この南水門が引き当てられた際には、南水門から流れ出る水とともに堆積した砂を採り、集落の清めの潮(砂)として撒く行事が行われています。つまり「筒の志をひ」は、筒川横のお潮井を採る場である南水門を指しているのです。
 では、何故、筒川と呼称されているのでしょうか?
 それは、次回に・・・・つづく。

※先の平成30年7月の豪雨災害で、南水門が被災し、現在は水が流れていません。しかし、丸林集落の皆さんは、さらに上流から水(お潮井)を採り、家々を清める行事を再開されています。被災現場は足元が危険なことに変わりありません。くれぐれも安全に気を配り催行されるよう、心よりお願いいたします。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:53Comments(0)基山の文化遺産

2018年08月14日

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その1)

 平成30年7月豪雨災害から1ヶ月、町内でも丸林地区をはじめ多くの地域で被害が出ました。当会でも被災した方々のレスキューにむかい、小さなできることを持ち寄り少しづつ少しづつ復旧作業に携わらさせていただきました。一方で、多くの場所で自然の猛威を前に人間の力の小ささを思い知らされる場面ばかりでした。
 その一つが、我が町基山の宝である特別史跡基肄城跡を襲った土石流の現場です。
 基山(きざん)中腹の自然崩壊に端を発し、山頂までその痕跡を残す被災現場は、かつての姿を思い出せない程、大規模な崩壊を引き起こしています。その土石流と流木を一手に引き受け、下流の丸林集落へ押し流されるのを防いだかのように、特別史跡基肄城跡の水門ある石塁には、多量の流木が堆積していました。そこにあったのが、丸林集落の方々が代々受け継ぎ信仰を深められていた住吉神社です。
 ここには、住吉神社のみならず、町内のガンジョウジ(願成就)の際のお潮井採りの場であったり、何よりも丸林集落の方々の思いが残る様々な文化遺産も築かれています。
 今回の被災で、住吉神社は崩壊し、江戸時代奉納の石製神殿や鳥居、そして狛犬が下流に押し流され、かつての姿をとどめない程、自然の猛威を目の当たりにします。


■被災前と被災後の姿

 不幸中の幸いというと、被災された方々には大変失礼なことであり申し訳なく思いますが、住吉神社の周囲に堆積している流木の下に、住吉神社の神殿、鳥居、狛犬の部材が原型をとどめて残っているのを確認しています。そして忘れてはならないのが、水門横に流れる筒川に掛けられている橋は、丸林集落の方々が「お伊勢参り」を記念して奉納された橋です。可能であれば、神社の部材は今一度拾い上げ、組直し、橋を復旧することで、丸林集落のご先祖様がつないで来られた思いを未来につないでいけたら、これこそが、どこにもない基山の個性を失わずにすむ一歩だと思います。


■被災した住吉神社の部材や橋
(基山町教育委員会との協働調査報告より)  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 07:43Comments(0)基山の文化遺産