2018年08月21日

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その5)

■住吉三神と神功皇后伝説と基肄城

 住吉三神と天皇家のつながりは、『日本書紀』巻第九 神功皇后 摂政前紀に記されています。ここに記されている神功皇后は、2世紀から3世紀に生きたとされる皇后で、夫は仲哀(ちゅうあい)天皇、そして子は応神(おうじん)天皇とされ、九州南部にいた熊襲討伐のため九州に来た際、熊襲より財を持つ韓半島の新羅を打つべしという神託を住吉三神から受けたとされるものです。夫である仲哀天皇は、この神託を無視したことから絶命し、この神託に従って韓半島へ向かった神功皇后は、労せずして新羅を征伐したと『日本書紀』に記されています。また『日本書紀』巻第九には、新羅征伐の後、時を経ずして百済と高句麗もほどなく降伏したと記されています。この時、降伏した三韓は、新羅、百済、高句麗とされていますが、神功皇后が生きていたとされる時代からは、その前身である馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を指し、高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征伐とも考えられています。
 そもそも、神功皇后自体の実在性も議論が分かれており、韓国史上では新羅征伐は伺えますが、残りの国々の征伐記録は見えず、『日本書紀』巻第九自体の信ぴょう性も疑問視されています。
 いずれにしても、『日本書紀』が記された奈良時代の歴史認識に基づき、天皇家と住吉三神の関係を知り得る貴重な記録であり、また、特別史跡基肄城跡が築造された経緯である韓半島の国々に関係するなど、天皇家と住吉三神、そして基肄城へのつながりを想像させる物語だといえます。

 これまで記してきたことを整理すると、住吉神社が特別史跡基肄城跡の南水門横にある理由は、筒を想像させる南水門、そして筒の字を持ち、かつこの場が町内の集落を清めるお潮井を採る場であることから清浄を保つための水の神である住吉三神を祀ったことに由来すると考えられます。
■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その5)
●被災前の住吉神社

 その縁起は、奉納神殿や鳥居から江戸時代まで遡ることは確実で、石垣修理に伴って実施された埋蔵文化財調査成果からは、石垣南側の平地から鎌倉時代の食器類が多量に出土していることを考えると、この頃まで遡る可能性を想像させます。

■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その5)■住吉神社と特別史跡基肄城跡(その5)
●住吉神社神殿(天明四年(1784)三月銘の石製神殿)




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