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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2018年03月31日

「天神社」と「天満宮」(その6)

●天満大自在天神となられた菅原道真公
 話が長くなりました。
 話を戻して、「天神」呼称が等しく菅原道真公という、いわば誤解が生じた所以も、都人によって神格化されたことから始まったといえます。一条天皇の世、永延元年(989)には勅祭として北野聖廟祭祀が営まれ、宣命として「天満宮天神」呼称がなされます。ちなみに天徳4年(960)には「天満自在天神」の神号があったことも知られています。
 また、『北野天神根本縁起絵巻』(鎌倉時代初期の作)には、道真公がご存命の頃、居所近くの山(筑紫野市にある天拝山と伝えられています。)に登り、我が身の潔白を祭文に書き、細い竹の先に捧げ7日7夜天を仰ぎ見て心を尽くして祈ったところ、祭文が高く昇天し帝釈天宮を過ぎ、梵天に至ったとされ、ご自身は「天満大自在天神」になられたと伝えています(※帝釈天・梵天:仏法上の守護神。)
 長くなりましたが、「天神」呼称が等しく「天満大自在天神」である菅原道真公という解釈が広まり、天神社が天満宮という誤った理解がなされるようになったと思われます。

 筑紫野市筑紫にある若江天神社には、臥牛として牛の石像が奉納されています。

■若江天神社の位置
 
 牛馬の霊を祀る意味があるようですが、「天神」呼称のお宮であることと、牛の像があることから「天満宮」と誤解されている方もいるようです。この若江天神社の御祭神は、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、高皇霊貴大神(たかみむすびのおおかみ)、神皇霊貴大神(かみむすびのおおかみ)の三神様です。ちなみに天御中主大神は高天原に最初に現れた神で、次いで高皇霊貴大神と神皇霊貴大神が現れ造化の三神とし「創造」を神格化した神として知られています。高皇霊貴大神(高皇産霊神)様は、基山の隼鷹天神社の御祭神と同じです。高皇霊貴大神(高皇産霊神)様は、天孫降臨の際には「高木神(たかぎのかみ)」として登場されます。

 そういえば、基山の高木天神社の御祭神が、「高木某・・・」とするという、この「高木」が、人の名(八ツ並長者伝説の中で登場する、八ツ並長者の御長男とする説があります。)ではなく高皇霊貴大神(高皇産霊神)様ではないかという思いも生じてきます。それは、またの機会に・・・・・。

■高木天神社

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 17:41Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

2018年03月28日

「天神社」と「天満宮」(その5)

●安楽寺と天満宮
 眷属神を持つ神、まさに天満天神となられた道真公と、責め苦を受ける逆心者たちの姿を語ることで、天満天神をお祀りすることが地獄へ落ちることから救われるという意識が現世の人々に植え付けられて神格化されていきます。
 一方で、道真公が亡くなられた地・大宰府では既に門弟であった味酒安行(うまさけのやすゆき)が、道真公の死の二年後の延喜5年(905)8月19日に御廟を建立し安楽寺として菩提を弔っています。いわば菩提寺・安楽寺として道真公の墓所は祀られていくことになります。
 都では天満天神として神格化された道真公、大宰府では菩提寺を建立し弔われた道真公、この二つの姿があったことが歴史は語ります。大宰府では、天満宮という神崇拝の場としての呼称は戦国時代以降に一般化し、それ以前は安楽寺として呼称されている理由はここにあります。

■菅原道真公の御廟(太宰府天満宮御本殿)

 ちなみに、大宰府では、鎌倉時代以前の文献には「安楽寺」のみ記され、鎌倉時代中頃~室町時代までの文献に「天満宮・安楽寺」「天満宮安楽寺」の呼称が見え始め、天満宮という神崇拝の場としての呼称は戦国時代以降に一般化し「天満宮」「太宰府天満宮」として呼称されています。神崇拝の色彩が強くなった後も、大宰府にある道真公を弔う場を取り仕切る役職が、寺院を管轄する別当職が置かれていたことからも天満宮という神崇拝の場というよりは、寺院としての役割が強かったことが分かります。


■御本殿東側の丘陵中段にある相輪塔
 仏塔の一つとされ、五重の塔などの最上部にある相輪のみからなる塔で、安楽寺の名残といえる文化遺産です。享和2年(1802)の建立で、弘化4年(1847)再建とされ、現在は、太宰府市の指定文化財になっています。

■参考資料(大阪四天王寺の五重塔)

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:11Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

2018年03月25日

「天神社」と「天満宮」(その4)

●眷属神従える「太政威徳天」となられた菅原道真公
 清涼殿落雷事件をきっかけとして、雷神を眷属神(けんぞくしん)となす神「天満大自在天神・菅原道真公」が、後世に伝えられるようになります。
 怨霊と化した菅原道真公の御霊を鎮めるため、清涼殿の事件前には右大臣への復権、正二位の位を与えるとともに、左遷の詔が破棄され、菅原道真公に対する復権は図られていましたが、清涼殿の事件が都人の恐れの頂点に達し、御霊社を建て「怨念」を鎮める機運が高まり、天慶4年(941)の僧道賢の道真公の霊と巡り合った話や、翌5年の巫女多治比文子(たじひのあやこ)への天満天神からの託宣によって、京都北野天満宮が創始されます。北野の地は、地神としての地主社があり雷神を祀る場として知られていました。


■北野天満宮 御本殿

■御本殿裏 北東隅にある地主社
(写真右端の朱塗りの建物)

 中でも、僧道賢(どうけん)が修行中、脱魂状態となり執金剛神の導きで金峰山浄土に連れていかれた際、「太政威徳天(だじょういとくてん)」と名乗る道真公に出会い、そこで「太政威徳天」が言われるには、「都で起こっている天変地異は、自分が起こしているわけではなく、我が眷属十六万八千の悪神らが随所で危害を与えている。中でも雷の災害は、第3の使者火雷天気毒王がなすところである。」と。その後、地獄の責め苦にあう醍醐天皇にも会い、脱魂して13日目に蘇生したといわれています。
 この僧道賢の語りから、眷属神を持つ「太政威徳天」が菅原道真公であること、道真公を貶めた人々が地獄の責め苦を受けていることの二つに注目することができます。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:06Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

2018年03月25日

「天神社」と「天満宮」(その3)

●道真公左遷に加担した人々の不可解な死
 菅原道真公の死後、都では疫病の流行、地方では干ばつが続き、世情不安な世と変貌していきます。そして、延喜5年(908)10月の藤原菅根(すげかね)の死から、藤原時平の死へと道真左遷に関わった時平一派といわれた人々があいつで不可解な死を遂げます。

 無念の内に死した道真公の「怨霊」の祟りによるものだとの噂が、都人を震撼させます。そして、ついに菅原道真公をして「天満天神」となした出来事が起きるのです。

■落雷事件が起きた清涼殿

 延長8年(930)6月26日、日照り続きの中、諸卿が請雨の会議を開いていた清涼殿の上を愛宕山から湧き起った黒雲が覆い、この黒雲から一筋の雷が清涼殿をつらぬきます。その落雷によって菅原道真の事情聴取を行った大納言藤原清貫(きよつら)は衣を焼かれ胸裂けて即死、そこに座していた多くの人々が亡ったのです。

■現在の京都御所にある清涼殿
(落雷事件があった清涼殿は、鎌倉時代に焼失し再建されていません。)


  
タグ :清涼殿


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 08:05Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

2018年03月24日

「天神社」と「天満宮」(その2)

●天満宮御祭神・菅原道真公
 菅原道真公は、昌泰4年(901、延喜元年)1月25日に右大臣兼右近衛大将から大宰権帥に任ずるという詔が、時の天皇醍醐天皇から発せられ、大宰府の地へ来られました。世に知られる大宰府への「左遷」の詔です。学問の家に生まれ、18歳で文章生に及第して以降、順調に昇進し右大臣までたどり着いた先の、人生最大の挫折でした。右大臣に任じられる際、菅原道真は再三奏状を呈して辞退したものの宇多天皇に聞き入れてもらえなかったと伝えられています。相対する左大臣は、若干29歳であった藤原時平です。あの、乙巳の変(大化改新)を起こした中大兄皇子(後の天智天皇)とともに皇子を支えた中臣鎌足(後の藤原鎌足)の子孫と標する氏族の一人で、学者から右大臣に転じた菅原道真を良くは思っていなかった旧勢力の先鋒と言われていた人物です。
 この時平の画策によって、菅原道真公は大宰府へ下向され、ついには延喜3年(903)2月25日に府南館(現在の榎社)にて無念の心を抱きながら58年の生涯を閉じられます。

■菅原道真公の居所跡に建つ榎社(府南館)

■秋の神幸式大祭の時、榎社へ行幸される道真公
                     (お上りの様子)

 菅原道真公は、死に際し、「外国(げこく)に死を得たならば、必ず遺骸を故郷に帰さんことを、思うところあるによりてこの事願わず。」と遺言されたと伝えられています。「思うところあって」都に我が遺骨を帰して欲しくないと言葉を残されたのです。この遺言を守り、菅原道真公の御遺体は、大宰府の地に埋葬され、現在の太宰府天満宮御本殿に安置されています。

■道真公に「梅ケ枝餅」を差し上げた浄妙尼様の社殿
      (榎社本殿背後にひっそりと建っています。)


  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 14:08Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

2018年03月24日

■「天神社」と「天満宮」、同じと思っていませんか?

 「天神社」と称される神社と「天満宮(天満神社)」と称される神社が同じだと思われる方・・・、ご注意ください。
 それぞれでお祀りされている御祭神に違いがあるので、混同しないように。
 我が町基山にも「高木天神社」「隼鷹天神社」「麻生天神社」「八龍天神社」があり、一方で「中隈の天満神社」「白坂の天満神社」「上野の天満神社」「西長野の天満神社」があり、天満神社は、その多くが天満宮と別称されています。

●基山町の天神社

【高木天神社】

【隼鷹天神社】

【麻生天神社】

【八龍天神社】

 天満神社(天満宮)の御祭神は、太宰府天満宮の御祭神である菅原道真公です。一方「天神社」と称される神社の御祭神は、菅原道真公ではありません。天神社は、元は「田神社(でんじんしゃ)」と呼称されていたものもあり、田の神さま、生産・生成の神さまという色彩が強く、基山にある4つの天神社もそれぞれの御祭神は、生産・生成や地域に貢献し生産の心の支えとなられた方が祀られています。
 では、混同されていた方、何故、「混同」が生じたのでしょうか?
 それは、天満神社(天満宮)の御祭神である菅原道真公は、その御霊を神格化した神として天満大自在天神(天満天神)と呼称されます。この菅原道真公が神格化された際に呼ばれた「天神」呼称に、天神社が天満神社と混同される理由が潜んでいます。
 ここからは、話が長くなりますので、・・・つづく。  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 00:49Comments(0)基山の文化遺産

2018年03月18日

■長崎街道を歩く

 本会有志によって、昨年より木山口町(現基山町)から長崎まで長崎街道を歩く会が不定期ながら継続され、去る3月11日に大村宿から永昌宿(現諫早市)まで到達しました。

■前回(彼杵宿~大村宿)の到達点・大村宿をスタート

■今回の到着点・永昌宿

■今回の行程

 毎回9時から17時頃まで歩き、平均15km程度、山あり谷あり、時には現在の道路で削られて絶壁あり、ヤブありの中、「諸先輩方」の積み重ねの上に描かれた地図を手掛かりに歩いています。(江戸時代は、男性で40km/日だったようです。とても歩けません・・・。)

■新設道路の横に残される長崎街道
(不可解な舗装道路が交差点横に一部残されています。)

 最も役立つのは、この「諸先輩方」が残してくださっている小さな道しるべです。道に迷いそうになると、この道しるべが現れ、迷える私たちを先へ導いてくれます。まさに、我々にとって「猿田彦大神」様のような存在です。

■地域の諸先輩方が残してくださっている道しるべ

■旧大村藩と旧佐嘉藩の境界【日野峠(鈴田峠)】

■タイムスリップしたような気になる峠越えの道

 長崎まであと少し。長崎の終着説は数あれど、私たちの終着予定地は、新たに架橋された出島を目指しています。長崎到達後は、木山口町を起点に「反転」し、今度は小倉常盤橋を目指します。

 毎回のお楽しみは、如何なる場所でも開催される到着地での「反省会」。
 旅の疲れを肴に、ついつい長居してしまう、「たのしい会」です。

■ある時は喫茶店で、ある時は道の駅やJR駅構内で、この日は少し贅沢に・・・。

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 14:12Comments(0)活動・報告日記

2018年03月18日

■八ツ並長者伝説の地を巡る

 昨日、17日に「八ツ並長者伝説の地を巡る」と題して、昨年12月に公演した、きやま創作劇「八ツ並の姫」の物語に関わる文化遺産の地を巡るウォーキングイベントが、基肄かたろう会と基山町教育委員会共催で行われました。

■出発前の様子
 肌寒い風が吹く朝でしたが、幸い晴天で正午に近づくにつれ春を思わせる暖かな散策日和となりました。40名近くの方々にご参集いただき、中には創作劇に参画してくれた子どもたちも加わり、賑やかに八ツ並長者伝説に語られる文化遺産を巡りました。

■立花の伯母上がお住まいになられていた地に建つ立花地蔵尊にて

 このイベントのきっかけは、創作劇「八ツ並の姫」に出演した子らが、基山町金丸にある「八並武徳神碑」を探し求めて行ったという話から始まりました。それならば、みんなでまわろうということになり、昨日、実現したところです。

■八ツ並の姫とゆかりのある太田山安生寺にて

 基山の歴史や文化を素材とする「きやま創作劇」だからこそ、本物に出会えることだと思います。これを機会に、創作劇と関係する文化遺産をつなぐ取組を進め、五感で伝えていきます。そうすることで、自らの言葉で基山の歴史(誇り)を語ることができる方々が増え、逆に語れる方々お一人おひとりが、基山の誇りになる日も近いのではないかと感じました。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 08:58Comments(0)参画事業

2018年03月04日

■平成29年度 歴史散歩開催

 昨日、3日(土)に基山・鳥栖・小郡クロスーロード文化研究会主催の歴史散歩が開催されました。
 この歴史散歩も3月第一土曜日開催と定例化し、リピーターの方々も多く詰め掛け100名を超える方々に参集いただき、今年も盛会に終わりました。

■開催前スタッフミーティング時の会長挨拶の様子

 今年は、「荘園を歩く」と題し、小倉庄、奈良田庄と基山から鳥栖を舞台に歩きました。
 幸い、暑くもなく寒くもなく、ちょうどよい気候のもと、歩いていただけたと「天」の神さまに感謝しました。

■北奈良田八幡神社での解説の様子

 まだまだ、ガイドを担当した私たちには、知りたいこと、学びたいことがたくさんあります。新たな話を聞きに、またの機会に再び御出で下さい。
 参集いただきました皆様、ありがとうございました。
 また、スタッフの皆さま、お疲れさまでした。

終着場所のJR田代駅にて、閉会挨拶の様子
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 13:49Comments(0)主催・共催事業