2018年03月25日
「天神社」と「天満宮」(その4)
●眷属神従える「太政威徳天」となられた菅原道真公
清涼殿落雷事件をきっかけとして、雷神を眷属神(けんぞくしん)となす神「天満大自在天神・菅原道真公」が、後世に伝えられるようになります。
怨霊と化した菅原道真公の御霊を鎮めるため、清涼殿の事件前には右大臣への復権、正二位の位を与えるとともに、左遷の詔が破棄され、菅原道真公に対する復権は図られていましたが、清涼殿の事件が都人の恐れの頂点に達し、御霊社を建て「怨念」を鎮める機運が高まり、天慶4年(941)の僧道賢の道真公の霊と巡り合った話や、翌5年の巫女多治比文子(たじひのあやこ)への天満天神からの託宣によって、京都北野天満宮が創始されます。北野の地は、地神としての地主社があり雷神を祀る場として知られていました。

■北野天満宮 御本殿

■御本殿裏 北東隅にある地主社
(写真右端の朱塗りの建物)
中でも、僧道賢(どうけん)が修行中、脱魂状態となり執金剛神の導きで金峰山浄土に連れていかれた際、「太政威徳天(だじょういとくてん)」と名乗る道真公に出会い、そこで「太政威徳天」が言われるには、「都で起こっている天変地異は、自分が起こしているわけではなく、我が眷属十六万八千の悪神らが随所で危害を与えている。中でも雷の災害は、第3の使者火雷天気毒王がなすところである。」と。その後、地獄の責め苦にあう醍醐天皇にも会い、脱魂して13日目に蘇生したといわれています。
この僧道賢の語りから、眷属神を持つ「太政威徳天」が菅原道真公であること、道真公を貶めた人々が地獄の責め苦を受けていることの二つに注目することができます。
清涼殿落雷事件をきっかけとして、雷神を眷属神(けんぞくしん)となす神「天満大自在天神・菅原道真公」が、後世に伝えられるようになります。
怨霊と化した菅原道真公の御霊を鎮めるため、清涼殿の事件前には右大臣への復権、正二位の位を与えるとともに、左遷の詔が破棄され、菅原道真公に対する復権は図られていましたが、清涼殿の事件が都人の恐れの頂点に達し、御霊社を建て「怨念」を鎮める機運が高まり、天慶4年(941)の僧道賢の道真公の霊と巡り合った話や、翌5年の巫女多治比文子(たじひのあやこ)への天満天神からの託宣によって、京都北野天満宮が創始されます。北野の地は、地神としての地主社があり雷神を祀る場として知られていました。

■北野天満宮 御本殿

■御本殿裏 北東隅にある地主社
(写真右端の朱塗りの建物)
中でも、僧道賢(どうけん)が修行中、脱魂状態となり執金剛神の導きで金峰山浄土に連れていかれた際、「太政威徳天(だじょういとくてん)」と名乗る道真公に出会い、そこで「太政威徳天」が言われるには、「都で起こっている天変地異は、自分が起こしているわけではなく、我が眷属十六万八千の悪神らが随所で危害を与えている。中でも雷の災害は、第3の使者火雷天気毒王がなすところである。」と。その後、地獄の責め苦にあう醍醐天皇にも会い、脱魂して13日目に蘇生したといわれています。
この僧道賢の語りから、眷属神を持つ「太政威徳天」が菅原道真公であること、道真公を貶めた人々が地獄の責め苦を受けていることの二つに注目することができます。
2018年03月25日
「天神社」と「天満宮」(その3)
●道真公左遷に加担した人々の不可解な死
菅原道真公の死後、都では疫病の流行、地方では干ばつが続き、世情不安な世と変貌していきます。そして、延喜5年(908)10月の藤原菅根(すげかね)の死から、藤原時平の死へと道真左遷に関わった時平一派といわれた人々があいつで不可解な死を遂げます。
無念の内に死した道真公の「怨霊」の祟りによるものだとの噂が、都人を震撼させます。そして、ついに菅原道真公をして「天満天神」となした出来事が起きるのです。

■落雷事件が起きた清涼殿
延長8年(930)6月26日、日照り続きの中、諸卿が請雨の会議を開いていた清涼殿の上を愛宕山から湧き起った黒雲が覆い、この黒雲から一筋の雷が清涼殿をつらぬきます。その落雷によって菅原道真の事情聴取を行った大納言藤原清貫(きよつら)は衣を焼かれ胸裂けて即死、そこに座していた多くの人々が亡ったのです。

■現在の京都御所にある清涼殿
(落雷事件があった清涼殿は、鎌倉時代に焼失し再建されていません。)
菅原道真公の死後、都では疫病の流行、地方では干ばつが続き、世情不安な世と変貌していきます。そして、延喜5年(908)10月の藤原菅根(すげかね)の死から、藤原時平の死へと道真左遷に関わった時平一派といわれた人々があいつで不可解な死を遂げます。
無念の内に死した道真公の「怨霊」の祟りによるものだとの噂が、都人を震撼させます。そして、ついに菅原道真公をして「天満天神」となした出来事が起きるのです。

■落雷事件が起きた清涼殿
延長8年(930)6月26日、日照り続きの中、諸卿が請雨の会議を開いていた清涼殿の上を愛宕山から湧き起った黒雲が覆い、この黒雲から一筋の雷が清涼殿をつらぬきます。その落雷によって菅原道真の事情聴取を行った大納言藤原清貫(きよつら)は衣を焼かれ胸裂けて即死、そこに座していた多くの人々が亡ったのです。

■現在の京都御所にある清涼殿
(落雷事件があった清涼殿は、鎌倉時代に焼失し再建されていません。)
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