2018年03月24日
「天神社」と「天満宮」(その2)
●天満宮御祭神・菅原道真公
菅原道真公は、昌泰4年(901、延喜元年)1月25日に右大臣兼右近衛大将から大宰権帥に任ずるという詔が、時の天皇醍醐天皇から発せられ、大宰府の地へ来られました。世に知られる大宰府への「左遷」の詔です。学問の家に生まれ、18歳で文章生に及第して以降、順調に昇進し右大臣までたどり着いた先の、人生最大の挫折でした。右大臣に任じられる際、菅原道真は再三奏状を呈して辞退したものの宇多天皇に聞き入れてもらえなかったと伝えられています。相対する左大臣は、若干29歳であった藤原時平です。あの、乙巳の変(大化改新)を起こした中大兄皇子(後の天智天皇)とともに皇子を支えた中臣鎌足(後の藤原鎌足)の子孫と標する氏族の一人で、学者から右大臣に転じた菅原道真を良くは思っていなかった旧勢力の先鋒と言われていた人物です。
この時平の画策によって、菅原道真公は大宰府へ下向され、ついには延喜3年(903)2月25日に府南館(現在の榎社)にて無念の心を抱きながら58年の生涯を閉じられます。

■菅原道真公の居所跡に建つ榎社(府南館)

■秋の神幸式大祭の時、榎社へ行幸される道真公
(お上りの様子)
菅原道真公は、死に際し、「外国(げこく)に死を得たならば、必ず遺骸を故郷に帰さんことを、思うところあるによりてこの事願わず。」と遺言されたと伝えられています。「思うところあって」都に我が遺骨を帰して欲しくないと言葉を残されたのです。この遺言を守り、菅原道真公の御遺体は、大宰府の地に埋葬され、現在の太宰府天満宮御本殿に安置されています。
■道真公に「梅ケ枝餅」を差し上げた浄妙尼様の社殿
(榎社本殿背後にひっそりと建っています。)

菅原道真公は、昌泰4年(901、延喜元年)1月25日に右大臣兼右近衛大将から大宰権帥に任ずるという詔が、時の天皇醍醐天皇から発せられ、大宰府の地へ来られました。世に知られる大宰府への「左遷」の詔です。学問の家に生まれ、18歳で文章生に及第して以降、順調に昇進し右大臣までたどり着いた先の、人生最大の挫折でした。右大臣に任じられる際、菅原道真は再三奏状を呈して辞退したものの宇多天皇に聞き入れてもらえなかったと伝えられています。相対する左大臣は、若干29歳であった藤原時平です。あの、乙巳の変(大化改新)を起こした中大兄皇子(後の天智天皇)とともに皇子を支えた中臣鎌足(後の藤原鎌足)の子孫と標する氏族の一人で、学者から右大臣に転じた菅原道真を良くは思っていなかった旧勢力の先鋒と言われていた人物です。
この時平の画策によって、菅原道真公は大宰府へ下向され、ついには延喜3年(903)2月25日に府南館(現在の榎社)にて無念の心を抱きながら58年の生涯を閉じられます。

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(榎社本殿背後にひっそりと建っています。)

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