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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2019年05月06日

■神や仏(その2)

 自然神を祀る行為から始まった神祇信仰は、奈良時代に入ると天皇家を神格化するために『古事記』『日本書紀』といわれる国書として奈良時代に編さんされ、「神祇信仰」から「古代国家神道」へと移ります。その後、仏の教えである仏教が移入され、様々な宗派に分かれ、さらにキリスト教などが移入されてきます。神道と仏教の関係は、古代以来の歩みを深め、神仏習合という自然神や天皇家の先祖としての神々が仏と結びつき、その時代時代の力関係を背景に神道と仏教の相互依存関係が成立してきます。


■基山町の小原にある隼鷹天神社には、仏式で用いる線香立てが置かれています。

 一般民衆の中では、「神も、仏も」同じという価値観が生まれ、神社内に神は本来仏様であり真のお姿としての仏様が祀られるという事態も千年余りの間にわたり続きます。本地垂迹という考え方で、神の本来の姿(本地)を祀るという思想が広がります。この事態に「終止符」を打ったのが慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された一連の通達として知られる神仏分離令です。明治維新の動きの中で、神道の国家化、いわば国家神道化を推し進めるため、神仏習合の中で生まれていた神社内に仏像を祀ることや僧侶の奉仕を禁じたのです。
 我が町基山に、太宰府天満宮(江戸時代までは天満宮安楽寺)からの請来仏があるのも、この神仏分離令を曲解した廃仏毀釈運動から天満宮安楽寺の仏像を、基山出身で太宰府に出て出家していた天本茂左衛門が救った結果なのです。大興善寺本堂に安置されている仏様の多くも、その時の仏様で、大興善寺本堂内に置かれている駕籠も、仏様を入れて、その時持ち込まれたものといわれています。

 話を戻して、「神も仏も」同じという神仏習合の考え方は、1000年以上の歴史を有していますが、今を生きる私たちは、日本の神様、仏様は別々の「宗教」が崇拝するものという観念を抱き、日々を生活しています。このような観念を抱いたきっかけは、ほんの150年前に布告された神仏分離令にたどることができるようです。

 明治新政府が進めたものの一つに、今話題の「男性天皇制」の法的根拠となっている『皇室典範』があります。現在の『皇室典範』は昭和22年(1947)に定められたものですが、その典拠となったものが明治22年(1889)に定められた旧『皇室典範』です。この第1条に「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定められ、現在の『皇室典範』第1条の「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」に引き継がれています。
 天皇は、「男性」でなければならないとする観念も、先に記した「近世以前の天皇制」をみるかぎり、明治時代から生まれてきているといえそうです。
 
 私たちが「常識」と思っていることの中には、歴史的にみて「非常識」が潜んでいるかもしれません。

※太宰府天満宮が、菅原道真公を弔う場としての安楽寺であったことは、平成29年(2017)12月30日の本ブログ「基山町小倉と太宰府天満宮」を御覧ください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 09:25Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産