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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2019年06月25日

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために(その9)

5.国家を夢見た聖徳太子の意志とそれを引き継いだ二人の兄弟

 国家機構とは、どのような仕組みを持ったものでしょう。国家機構とは単純化できるものではありませんが、様々な価値観を有する人々を一括統制するための制度で、法と法の番人としての警察制度、そして自ら生産行為を行わない階層を支えるための徴税制度を持ち、これらを監理するための官僚機構を機能させる仕組み等が国家制度といわれ、年齢や血縁、地縁で階層を形成し、支配-被支配関係を取り結ぶ氏族制度的な関係から一歩進んだ社会制度と考えられています。
 例えば、子どもの頃から共住し先輩-後輩の関係性が明らかな社会と、広域の人々を取りまとめ、先輩か後輩か判然としない社会の二者を考えた時、前者が氏族的社会で後者がその枠を越えた社会と言えます。その枠を越えた時の統括制度として機能するのが国家制度といえます。
 枠を越えた広域支配を目指した際に登場したものとして、時を刻み、役所への登庁・退庁の時間を統制する時計制度や、衣服の色によって在位する階級を表現する制度、そして居住する面積を一目で比較し居住者の階級を表現するために四角形の土地区割りを用いる条坊制度、さらには、食膳に並ぶ料理数で階級の上下を表現する食器制度などがあり、その多くは、飛鳥時代末期の天智天皇から天武天皇、そして持統天皇の在位期間の中で制度化されていきます。言い換えると中大兄皇子の時代から始まっていたのです。


●位階と宅地と色分けされた衣服
 【奈良文化財研究所(1989)『平城京展』より抽出】


●漏刻(唐代)【奈良文化財研究所(2002)『飛鳥・藤原京展』より抽出】

 ただし、国家機構を制度化したのは中大兄皇子-大海人皇子、そして鸕野讃良皇女(うのさららのひめみこ 後の持統天皇)ですが、導入を画策した人物は、聖徳太子として広く知られる厩戸皇子でした。
 氏族的社会から脱し、中央集権的な国家機構成立を図るため冠位十二階の制度や十七条憲法を導入しました。しかし、制度は整えても、それに従う人々の意識の中に制度を支える気持ちがなければ、制度を維持していくことはできません。厩戸皇子の「国家」制度導入の試みが広がりをみせなかったのは、そのことを裏付けています。

 同じく、中大兄皇子、大海人皇子の兄弟の前にも巨大な障壁が立ちはだかります。


●百済遺民と話し合う中大兄皇子たち【第3回公演】

 それは、豪族たちが代々受け継いできた既得権益だったのです。ここをどう打ち破るのかが、氏族制度的社会から国家制度的社会へ飛躍するための巨大なハードル(壁)だったのです。
                  ・・・・・・【つづく】

※新元号「令和」発表後に広く知られることになった梅花の宴を表現したジオラマが、大宰府展示館にあります。その中で官人が色とりどりの服を着ています。これは、多彩な色の服を着ることができたことの表現ではなく、着ている人々の位階を一目で分かるように表現した結果であることを知っていてください。
 濃い紫(深紫)が最高位である一位、淡い紫(浅紫)が三位までの貴族、次が赤で四位まで、次に橙色で五位、そして濃い緑で六位、淡い緑色で七位、濃い青で八位、そして色がある最も下位が淡い青で初位があたります。全く色がない白は、位もない無位の者と当時の法令である令に規定されています。



●とびうめ国体採火式での衣装【於:大宰府政庁跡 平成2年(1990)】

※「時計」は、大変失礼ながら沖縄の方々の時間観念が、各種番組で取り上げられており地域ごとの時間の観念があることは知られているところです。一方、様々な時間観念を混在させる国家機構の中では、登庁者がまちまちに登庁されては業務が滞ることも予想されます。このことを統制するための装置として「時計」が登場し、時の記念日のところでも解説しましたが、日本に時計である漏刻を持ち込んだ方が、まさに倭国に国家機構を持ち込もうと画策した中大兄皇子であり天智天皇であったのです。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:41Comments(0)基山の文化遺産