スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新の無いブログに表示されています。
新しい記事を書くことで広告が消せます。
  

Posted by さがファンブログ事務局  at 

2019年06月19日

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために(その5)

 韓半島の中で、最も倭国に情報や文物をもたらしてくれていたのが韓半島西部、中国大陸に近い百済だったのです。ただし、倭国としては韓半島一国に傾注していたわけではなく、韓半島北部の高句麗や東部の新羅との交流も継続はしていました。

 しかし、斎明6年(660)年、百済の王義慈の失政により、百済が滅亡します。韓半島統一を目指す新羅と韓半島征服を企てる唐の連合軍に敗れてしまうのです。
 義慈王は唐へ送還されてしまいますが、すぐさま、鬼室福信を中心とする百済復興軍が建てられ、その中心に据えられたのが、義慈王の子豊璋だったのです。
 この豊璋こそ、倭国が白村江の戦いへと突き進まなければならなかった理由を握る人物でした。
 豊璋、こと余豊璋(扶余豊璋)で、劇中では第2場の唐国でのやりとりの中で登場します。余豊璋は、遡ること舒明3年(631)に「百済の王義慈、王子豊璋を入りて質とす」と『日本書紀』は伝えています。ただし、この年は、百済の王は義慈ではないため記述内容の信ぴょう性は疑わしいとされています。その後、余豊璋の名が見えるのは皇極2年(643)に、養蜂に失敗したという内容で『日本書紀』に記されています。

『日本書紀』皇極天皇二年(643)
「是歳、百済の太子余豊(余豊璋)、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず」

 この頃には、確実に倭国にいたことは考えられ、この時前後から斎明6年(660)までの17年間を倭国で過ごしていたことになります。この長きにわたり、大和王権の政争渦巻く脇ですごしていた余豊璋、王権を担っていた中大兄や大海人、そして二人の兄弟の母であった斎明天皇に「情」が生まれていなかったとはいえないでしょう。百済滅亡後に、余豊璋を韓半島へ5000人余の軍とともに送り届けていることにも表現されています。
 しかし、この状況をそばでつぶさに観察し、百済-倭の連合を画策した人物がいたのです。
 そう、その人物こそ、後の新羅王武烈となる金春秋(きむ ちゅんちゅ)、その人だったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・【つづく】  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:00Comments(0)基山の文化遺産