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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2019年06月18日

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために(その4)

2.なぜ、白村江へむかわなければならなかったのか

 白村江の戦いは、天智2年(西暦663)に起こった百済救済のための戦いで、「百済の役(えだち)」と呼称されています。結果として天智2年8月28日、干潮の時間を見誤った倭・百済の軍船は座礁し、白村江の海は真っ赤に染まったといわれています。
 なぜ、白村江の戦いへ、言い替えると韓半島西部にあった一国の百済の救済の戦いへむかわなければならなかったのでしょうか。
 そもそも百済という国はどのような国だったのでしょう?
 百済の始祖は、実は韓半島北部の国高句麗にあり、元をたどれば中国東北地方にあった扶余の一族でった朱蒙(ちゅもん)が起こした国高句麗にあって、始祖王朱蒙の子であった温祚(おんじょ)が、高句麗の太子との対立を避けて、十人の家臣とともに韓半島南部に行き建てた国が百済の元となる「十済」であったと言われています。時に、紀元前18年、日本では弥生時代中期にあたります。このことに、百済王が「扶余」姓を名のる理由があります。


●5世紀から6世紀ごろの韓半島情勢
(韓半島情勢は、安定的な状況ではなく、図に示した各国の領域も、その時々で大きく変化しています。おおよその地理的な位置として御理解ください。)

 話を戻して、日本にとって韓半島の諸国は、大陸の優れた文物や情報を得るために必要な情報源であり、韓半島の諸国を介して、仏教や多くの制度、鉄などの優れた文物を手に入れていました。韓半島諸国も、隋や唐など大陸の脅威に対して、背後に位置する倭とつながることは、退路を確保するとともに、挟み撃ちをさけるためにも重要な課題でした。
                 ・・・・・・【つづく】
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:17Comments(0)基山の文化遺産