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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2020年09月26日

■「間宿(あいのしゅく)」としての木山口町(その1)

 話がだいぶそれました。木山口町の話に戻しましょう。

 木山口町は、長崎街道沿いにある街場であり、多様な価値観を持った人々が集住した「都市」的な空間であったと記してきました。一方で、木山口町は長崎街道の正式な宿場町としては記されていません。木山口町近傍の正式な宿場は、北は原田宿(福岡県筑紫野市)、南は田代宿(佐賀県鳥栖市)で、その間にあるということで「間宿(あいのしゅく)」と呼称されています。
 木山口町がある地域の字(あざ)名に「宿」とする場所があり、宿場街であったことを知ることができます。


■字名「宿」の範囲

 正式な宿場町ではないにも関わらず、なぜ人々が集住し「町」をつくってきたのでしょうか。
 それを読み解く鍵は、木山口町がある地理的な場所性にあります。・・・・・(つづく)
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:05Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月26日

●余談(おまけ)

 ちょっとおまけ(余談)です。

 避難所では、行政機関(役場)は限られた職員で住民救助・支援にあたります。
 そこで動き出すのが、住民組織である行政区や隣組です。限られた職員、マンパワーで住民支援を行う時、区長-隣組長の流れにそって支援物資を配ることができなければ、個々人に一人ひとり、家族個々にひとり一人、行政職員が配ることになります。どれだけのエネルギーがいるのかは、想像できると思います。行政職員にしかできないこと、区長-隣組長にしかできないこと、住民にしかできないことがあります。皆が応分の負担を背負うことで効率的に支援物資が配給される現実を、東日本大震災のレスキュー現場で見て学びました。
 支援物資の受け渡しのみならず、平成30年(2018)7月に我が町きやまを襲った豪雨の時、基肄城の麓にある丸林地区の皆さんは声を掛け合って避難されたと聞きました。大規模な被災住宅があったにも関わらず、亡くなられた方がいなかったことは、不幸中の幸いであるばかりでなく、皆さまの日頃の隣付き合いの素晴らしい結果だと思います。



●平成30年7月の豪雨災害(丸林地区の様子)

●特別史跡基肄城跡南水門の被災状況
(令和2年度から歴史的風致形成建造物保存修理として、この時被災した南水門にある住吉神社の修理設計が始まっています。)

 「元気」な故に、隣組に入らない方、「お一人様」ですごされる方が増加中です!
 平和な時は「大丈夫」でしょう。しかし、昨今は、50年に一度という想定の豪雨が毎年起こっています。ひとたび被災すれば、行政力ではどうしようもない現実が待っています。みんなから「捨てられる」個人・家族になる前に、皆で助け合う社会を、皆で築く努力をお願いします。

 『人はひとりでは「死ねない」』

 誰かのお世話で自分の亡骸は処理されることは知っておいてください。
 縁故が辿れない方は、御遺体が発見された自治体の担当部署の長の印鑑がなければ火葬もできないのです。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 10:32Comments(0)基山の文化遺産