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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2018年07月04日

■「草莽の民」(その15)

■配置売薬(その1)
 置き薬といって、前もって各家に「腹痛薬」「頭痛薬」「湿布薬」などを常備した薬箱を置いていただき、家の人々がその度ごとに使った量を半年後に売薬人が訪れた際に把握し、その分の代金をいただくという後払いシステムで動く売薬業を配置売薬と言っています。

■配置売薬の薬箱


■置きくすり
 この配置売薬は、日本四大売薬が知られ、越中富山、近江、大和、そして我が町基山がある田代(対州)が該当します。ここ基山は、江戸時代は対馬藩田代領で、基肄郡と養父郡半郡がその範囲になります。この田代売薬の歴史は定かではなく、博多祇園山笠で知られる博多の櫛田神社に所蔵されている『博多津要録』という文書の宝暦4年(1754)の記事に「田代江口奇応丸売の和平次」との記載が見られ、田代に奇応丸(薬)を売る和平次という売薬人がいたことが分かります。


■「奇応丸」薬袋【「ふるさと基山の歴史」より抽出改変】
 その後、売薬業と併せて製薬業も盛んに行われ、西日本各地の製法を聞き取りした帳簿が残されるなど、かなり精力的に事業が展開していきます。近代に入り、それまで家庭内手工業的に製薬されていた薬も、明治時代を迎えると工場化が進み、大正3年(1914)には売薬法が公布され無資格者による売薬業に一定の規制がかかるようになっていきます。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:53Comments(0)参画事業基山の文化遺産