2018年07月03日
■「草莽の民」(その14)
■野田昌隆先生(野田倭一郎先生 基山先生)
野田昌隆先生は、江戸末期から明治4年(1871)の廃校まで対馬藩田代領藩校である東明館で句読師として教鞭をとられています。野田先生は、園部村内(現基山町園部)では、「野田倭一郎」とも呼称され、号を「基山(きざん)」と称していました。
野田先生は、鹿毛病院で知られる鹿毛良鼎氏の紹介で大興善寺を再興された玉岡誓恩氏の師としても知られ、また、現在5月の連休時に基山の各地域の方々が、大興善寺へ「火除の護符」をいただきに「火除け仏事」に参りますが、この「火除の護符」を玉岡誓恩法印へ提案された人物でもあります。「火除の護符」は、承和元年(835)に大興善寺が火災にあい、寺焼失の事態に陥ったが、本尊である観世音菩薩のみ雨にうたれ難を逃れたという逸話に基づいています。
晩年に至り目を患い部屋に籠ることが多くなられましたが、明治20年(1887)春、大興善寺修復にあたり弟子仲間を糾合し中心となって動かれています。野田先生は、この年の12月、大興善寺改修工事の竣工を見ずに亡くなられたのです。現在、基山町皮籠石に野田昌隆先生顕彰記念碑が建てられています。
■漢学塾対翆楼義塾
野田昌隆先生は、基山町皮籠石の自宅を使い漢学塾である対翆楼義塾を起こし、地域の子供たちへの教育活動もされていました。東明館が武士階層むけの教育機関であり、限られた人々のみを対象としていたのに対し、対翆楼義塾は、農民や商人など多くの階層の人々に門戸を開き、文字や考え方についての教えを広げていかれます。
基山の近代化の父ともいわれる梁井幾太郎氏も、明治12年(1879)からこの対翆楼義塾に4ヶ年ほど通い、勉学に励まれていたと伝えられています。梁井幾太郎氏の生涯をまとめた『梁井幾太郎の生涯』に、幾太郎氏はいつも野田先生の前に席を割り当てられ、キセルをふかしつつ授業をされる野田先生に、論語講読で誰か一人でも間違うと、幾太郎氏の頭をキセルでコンコンと叩かれていたと記されています。
野田昌隆先生は、江戸末期から明治4年(1871)の廃校まで対馬藩田代領藩校である東明館で句読師として教鞭をとられています。野田先生は、園部村内(現基山町園部)では、「野田倭一郎」とも呼称され、号を「基山(きざん)」と称していました。
野田先生は、鹿毛病院で知られる鹿毛良鼎氏の紹介で大興善寺を再興された玉岡誓恩氏の師としても知られ、また、現在5月の連休時に基山の各地域の方々が、大興善寺へ「火除の護符」をいただきに「火除け仏事」に参りますが、この「火除の護符」を玉岡誓恩法印へ提案された人物でもあります。「火除の護符」は、承和元年(835)に大興善寺が火災にあい、寺焼失の事態に陥ったが、本尊である観世音菩薩のみ雨にうたれ難を逃れたという逸話に基づいています。
晩年に至り目を患い部屋に籠ることが多くなられましたが、明治20年(1887)春、大興善寺修復にあたり弟子仲間を糾合し中心となって動かれています。野田先生は、この年の12月、大興善寺改修工事の竣工を見ずに亡くなられたのです。現在、基山町皮籠石に野田昌隆先生顕彰記念碑が建てられています。
■漢学塾対翆楼義塾
野田昌隆先生は、基山町皮籠石の自宅を使い漢学塾である対翆楼義塾を起こし、地域の子供たちへの教育活動もされていました。東明館が武士階層むけの教育機関であり、限られた人々のみを対象としていたのに対し、対翆楼義塾は、農民や商人など多くの階層の人々に門戸を開き、文字や考え方についての教えを広げていかれます。
基山の近代化の父ともいわれる梁井幾太郎氏も、明治12年(1879)からこの対翆楼義塾に4ヶ年ほど通い、勉学に励まれていたと伝えられています。梁井幾太郎氏の生涯をまとめた『梁井幾太郎の生涯』に、幾太郎氏はいつも野田先生の前に席を割り当てられ、キセルをふかしつつ授業をされる野田先生に、論語講読で誰か一人でも間違うと、幾太郎氏の頭をキセルでコンコンと叩かれていたと記されています。