2018年07月02日

■「草莽の民」(その13)

■東明館と広瀬家
 文政12年(1829年)には豊後日田の儒学者であり、塾生自ら考え疑問点を教師に質問するという、個性を伸ばす教育法で知られた広瀬淡窓が東明館へ招かれています。
■「草莽の民」(その13)
■対馬藩田代代官所跡(現:田代小学校)

 広瀬家は日田の商人として知られており、対馬藩田代領との関わりは、文政9年(1826)におきた対馬藩財政立て直し事業である「皿山仕立(焼物師、陶工、絵師の手配)」、いわば窯業生産を田代の地で始める計画が失敗したことに始まります。この時生じた多額の借金が代官所ではなく領民の身に覆いかぶさるという事態に陥いります。この窮地を救ったのが日田の商人であった広瀬家とされ、借金の立替を行い、領民には献金という名目で割り当て返済を促しています。この時から広瀬家と田代領との関わりは深まっていきます。
 広瀬淡窓は寛政7年(1795)から数回、筑前と日田の往復時に田代に立ち寄っています。淡窓は、文化2年(1805)に日田豆田町に成章舎(後に場を移し「桂林園」、さらに場を移転し「咸宜園」とする)を開塾し、文化4年(1807)には田代から門司郡吾と梁井慶次の二人が入門しています。文政12年に東明館にて淡窓が出張講義をした後は、淡窓の私塾咸宜園へ田代から58名もの入門者が訪れています。この咸宜園からは蘭学者である高野長英や近代日本陸軍の基礎を築き徴兵制の発案者とされる大村益次郎等が輩出されています。
■「草莽の民」(その13)
■広瀬淡窓が開塾した咸宜園(大分県日田市豆田)
■「草莽の民」(その13)
■「草莽の民」(その13)
■日田豆田町

 対馬藩田代藩校であった東明館の名を冠し、昭和63年(1988)より我が町基山に東明館中学・高等学校が、対馬藩田代領藩校で教鞭をとった広瀬淡窓の教育理念を引き継ぎ、学校教育を進めておられます。



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:15 │Comments(0)参画事業関連する文化遺産

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