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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2015年12月13日

基山が対馬藩領になったいきさつ

 ここ基山町は、江戸時代、対馬藩宗家の領地(對州領)として治められていました。その経緯は、語れば長いことながら、整理しておきましょう。

 時は、戦国時代末期、豊臣秀吉が全国統一を目指して九州の地に進撃していた頃の話です。

●天正15(1587)年 
 3月、豊臣秀吉は、九州平定を目指し、薩摩国島津攻めを開始。同年5月島津義久を攻略し、九州平定を成し遂げます。同年6月、秀吉は、島津攻めで軍功があった小早川隆景に対し、筑前1国、筑後2郡、肥前1郡半を与えます。この時の肥前1郡半に、基山町がある基肄郡が含まれていたのです。【基山←小早川隆景領】

 九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は、大陸への野望を成し遂げるべく、朝鮮出兵を計画します。

●文禄元(1592)年
 話は変わり、この年の3月、豊臣秀吉は、朝鮮出兵のため京都を出立。同年4月小早川隆景ら朝鮮釜山浦に入港。文禄の役が始まります。この時、薩摩国出水郡を所領としていた島津忠辰が、進撃に出遅れます。このことに秀吉は激怒し、島津忠辰を幽閉し所領を没収してしまいます。
●文禄4(1595)年
 4月対馬領主宗義智は、先の文禄の役での功績と朝鮮貿易の中断による損害を考慮し、秀吉から太閤蔵入地となっていた薩摩国出水郡の1万石を与えられます。

 再び、豊臣秀吉は二度目の朝鮮出兵を断行します(慶長の役)。

●慶長3(1598)年
 話を基山の地に戻します。4月基山の地を治めていた小早川隆景は、先の慶長の役の折にうっかり失敗を犯し、秀吉より越前国北庄へ左遷され、小早川氏の所領全てが豊臣氏のものになります。【基山←豊臣秀吉領】

 ここから、歴史は動きます!

●慶長3(1598)年
 先の慶長の役で軍功があった薩摩国領主島津氏に、恩賞として4万石が与えられます。その中に文禄元年に一族である島津忠辰が治めていた出水郡1万石を含めることを望みました。そこで秀吉は、島津氏に出水郡1万石を、出水郡1万石を治めていた宗義智には、小早川氏から没収していた肥前1郡半のうち、同じ1万石を与えたのです。【基山←宗義智領】

 そう、この時から、基山の地は対馬を治めていた宗氏の所領になったのです。


■佐賀県基山町と福岡県筑紫野市の境に建つ二国境標石には、「肥前国對州領(対馬藩領の呼び名)」と刻まれています。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 16:57Comments(2)基山の文化遺産