2020年10月11日

■国絵図

 日本では、奈良時代以降、荘園絵図や縄張り図など、その時々の為政者等によって土地管理のための絵図が伝えられています。そのような日本の絵図の歴史の中で、統一的に日本全土を網羅的に描いた絵図として江戸時代の『国絵図』は、書き込まれた情報のみならず、現代の地形図に転写できるほど地理情報として優れた地図が描かれています。

 木山口町の発祥を知ることができる絵図として、様々な場面で『正保国絵図』『元禄国絵図』を紹介してきました。これら江戸時代に描かれた『国絵図』には、慶長、正保、元禄、天保の4つがあります。江戸幕府へ絵図として収納された点からみれば、寛永の巡見使による『国絵図』収集を入れると5回と考えられています。

 慶長年間といえば江戸幕府開府時期にあたり、全国の土地領有状況の把握のために各国の大名に描かせ幕府へ収納されたと言われており、後の3つの『国絵図』との大きな相違は、統一観が希薄である点でしょう。この統一観のなさを克服するために、次の『正保国絵図』では、「国絵図可仕立覚」二十三か条が示され、下絵図を描いた後に大目付井上政重の許へ持参し、担当者の内見を仰いだ後に清書したと伝えられています。
 先に記した「一里塚」推定地の描き方についても、この「国絵図可仕立覚」に「一、道のり、六寸一里にいたし、絵図に一里山を書きつけ、一里山これなきところは参拾六町に間を相定め、絵図に一里山を書きつけ候のこと。」と記されています。描き方は規定されていませんが、道筋をはさみ両側に黒丸点で描かれ、『慶長国絵図』の一部でとり入れられ、『正保国絵図』から全国的に取り入れられています。

■国絵図

 ここで「国絵図可仕立覚」に記された図化基準の中で気になる記載があることに気が付きます。「一里山これなきところは参拾六町に間を相定め、絵図に一里山を書きつけ候のこと。」の文言で、「一里山これなきところ・・・」で、一里山が必ず設置されていたとは限らないということです。

 木山口町の北側の入口付近に「●-●」で記された箇所がありますが、実際にはどうだったか分かりません。この点については、聞き取りが必要ですね。



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:46 │Comments(0)関連する文化遺産

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