2019年06月29日

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために(その12)

 この「白村江の戦い(百済の役)」敗走と外敵襲来の報は、誰しも疑うことなく次の一歩へむけて突き進むに足る切迫感をもって、我が国の豪族たちの中を駆け巡ったことでしょう。すぐさま、我が国は、筑紫の国に最前線基地である筑紫大宰を守護する水城・大野城・基肄城を築きます。そして、都までの各所に城を築き、各地に烽火(とぶひ のろし場)を置いていきます。
 築城ならびに各施設の造営人員は、各地の豪族たちの民が駆り出され従事していきます。これまで同盟関係では成し得なかった「国家」規模での大事業だったのです。

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために
●人夫⑤「まてよ、こりゃ、なにか裏があるな~」
人夫④「この城を造って、この辺りの豪族たちをだまらせようって魂胆だ!」【第2回公演】

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために
●大宰府防衛線(基肄城-大野城-水城)

 まさに、大帝国唐と新羅が攻めてくるということを「外装(装い)」しつつ、地域支配のための大和王権の拠点造りに成功するのです。いわばハード整備に成功します。残るは、地域の豪族たちに大王家を支えるという精神的な面、カリスマ性を大王家が帯びること、このことを成し遂げることが、二人の兄弟が描いた古代国家形成へのシナリオに残されるだけとなったのです。

 残されたシナリオのはじまりは、くしくも兄の中大兄、天智天皇が我が子大友皇子への世襲意思によって幕を開けることになります。我が国最初の大乱・壬申の乱へと幕はきっておとされることになったのです・・・・・・・・・・【創作劇『こころつないで』の主題からは外れていくので、またの機会に・・・!】

※唐は、天智3年(664)に百済鎮将劉仁願の使者が、翌年も唐の皇帝の使者が続けて来日、新羅は、天智7年(668)に使者が来日しています。唐は新羅を討つための派兵要請であったと伝えられ、新羅は対唐戦争への対処として和親のための使いを倭国へ遣わしていたのです。それなのに、防衛施設を造り続けた理由、それが「基肄城に秘められた思い」の一つだったのです。
※「乱」「変」「役」「戦争」の4つの用語が、戦を標記するとき用いられます。
「乱」は、首謀者が失敗した時(壬申の乱 首謀者は大友皇子で叔父である大海人皇子【後の天武天皇】を討ちに出ます。)
「変」は、首謀者が成功した時(本能寺の変 首謀者は明智光秀で主君織田信長を討ちます。)
「役」は、戦に使役される役目を表現(百済の役、佐賀の役)
「戦争」は、戦を第三者的に表現する時(西南戦争、佐賀戦争)




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