2018年06月15日

■「草莽の民」(その4)

■佐賀の乱・佐賀の役・佐賀戦争
 明治6年(1873)の征韓論(李氏朝鮮を力づくで開国させるという論争)をめぐる政変から始まる佐賀を舞台とした戦役で、江藤新平の征韓党と、島義勇の憂国党によって明治政府に対する戦でした。

■「草莽の民」(その4)
■佐賀の乱が起きた時の戦傷が、今も残る佐賀城鯱の門(佐賀市)

 結果として、大久保利通率いる徴兵制度によって従軍させられた軍隊によって制圧され、薩摩や土佐に支援軍を求め奔走した江藤、島は捕えられ処刑されます。この旧佐賀藩士ともいえる人々の反抗は、明治新政府の「新たな社会」に幻滅し、不満をつのらせていた旧武士階層のはじめての反抗として歴史に記されています。
 この時は、江藤の援軍要請を時期尚早とし断った薩摩の西郷隆盛も、後に、西南戦争を起こし亡くなります。

 この戦は、「佐賀の乱」「佐賀の役」「佐賀戦争」と呼称されています。いずれも呼称する立場を考慮すると誤りではありません。どこが異なるのか。

●「乱」は鎮圧した政権側からみた立場
●「役」は奈良時代の呼称では「えだち」と読み、徴兵された人々が従軍する戦を指し、我が町基山ではよく知られ特別史跡基肄城跡が築かれる契機となった白村江の戦いは、『日本書紀』持統天皇4年(690)10月の条に「百済(くだら)を救ふ役(えだち)」と記されています。徴兵された人々の視点や徴兵する国家の視点といえます。
●「戦争」は、政権側、革命側、徴兵される人々側、いずれの立場からも呼称できるものです。

 教科書的にいうと政権に反抗し、体制変革を求めた江藤らの姿は、「乱」と映ります。

 一方、この戦は、江藤抹殺を画策した大久保の謀略であったとも云われ、それを証拠立てるかのように、江藤の助命を願うため岩倉具視が送った使者の到着を知りながら、使者に会わずに江藤を処刑した大久保の姿が回顧されています。この点を考慮すると、佐賀の乱ではなく、佐賀戦争とした方が望ましいという意見もあります。
 いずれにしても、置かれた立場から見た時の用語であるということを知り、使っていくことが必要でしょう。
 
 余談ですが、政権転覆を成功させた場合は、「変」という用語を用います。有名な戦は、明智光秀が織田信長を襲撃し成功した「本能寺の変」があります。



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:45 │Comments(0)参画事業

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