2016年05月22日

■熊本で見つけたモノ(その3)

 熊本市北区、かつての植木町に「寂心さんの樟」と呼ばれる大楠が「鎮座」しています。
■熊本で見つけたモノ(その3)

 熊本地震にあった家族への物資運搬の際、通っていていた道に突然、立派な大楠が現れ、根本に石碑らしきものが置かれていたのを横目で見ながら、4月15日、18日はひたすら熊本市内を目指していました。被災した家族も安定してきたので、足を止めて何のクスなのか確認したところ、鎌倉時代から室町時代にかけて当地を治めていた鹿子木氏の十代目、室町時代の領主親員、入道となり厳松軒寂心の墓と伝えられる大楠でした。
■熊本で見つけたモノ(その3)
■熊本で見つけたモノ(その3)

 当地の南には北迫集落が、北には鐙田集落があり、北迫集落の北の端に寂心さんの樟(墓)が建っています。その横は墓地となっており、北迫集落を見下ろすように設けられていました。
■熊本で見つけたモノ(その3)
■熊本で見つけたモノ(その3)
■墓地のむこうに見えるのが北迫集落

 寂心さんが生きた時代は、日本の中世の世(平安後期~室町期)。この頃の墓は、大きく二つの立地条件下に営まれます。一つは、今回のように集落の境界につくられます。もう一つは、宅地の中につくられ、前者のお墓は、集落の人々や領主、後者はその地を治める領主の館につくられています。
 その背景には、前者の集落境界につくられる人々の墓や領主の墓は、集落の見守り神(仏)、集落と集落の境界である無縁の地への造営など様々な解釈がありますが、造営契機としては集落境界であった無縁の地へ墓がつくられ、次第に集落の見守り神(仏)として昇華されていったと考えられます。後者の領主館への墓は、当地を治める正統性確認の証拠として、開拓者であった先祖(始祖)の墓を館内につくり祀ることで集落の人々に知らしめる効果を持っていたと解されています。館内の墓を「屋敷墓」といいますが、平安後期から鎌倉期にあたる中世前期では、土盛の上に小さな木(卒塔婆)が建てられ、いわば時間の経過とともに朽ちる墓として認識されています。中世後期、室町時代になると石塔をつくり、朽ちない墓へと変化し、時間を超えて、その威容を伝えていく墓へと変化していきます。

 再び「寂心さんの樟(墓)」を見てみましょう。集落を見渡せる境界にそびえる大楠、その根本に墓石が置かれています。中世墓地景観を描いた『一遍上人絵伝』には、屋敷の中に盛り土をし、その上に木が植えられている屋敷墓が描かれています。
 もしかしたら、この大楠の周囲に館があるのかもしれませんね。



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 07:17 │Comments(0)関連する文化遺産

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