2012年04月30日

きやま(城山・木山・基山)

 山の呼び名は、「きざん」。町の呼び名は、「きやま」
 交差点名称、見ていただけましたか?

 では、「基山」の漢字名称は、いつから使われはじめたのか。について語ってみましょう。
 地名の多くは、呼称が大切にされ、そこに込められた意味は、その時々の解釈によって多様に変化しています。「きやま」の呼称に対し、そこにあてられる漢字には、よく知られているだけでも3つあることはご存知でしょう。

「城山・木山・基山」の3つ。

 「城山」は、基山(きざん)の筑紫野市側に「城山」の地名が現存しています。
 「木山」は、JR基山駅周辺が「木山口町」として江戸時代の絵図・長崎街道を通った人々の紀行文に残されていますし、今でも木山口町として語られています。
 「基山」が最も新しく、これまで明治22年の4ヶ村合併時から使われ始めたと言い伝えられてきました。

 が、基山町史編さんに伴う地域資料調査で、木山口のお宮から「文政十年」の年紀が記された一枚の額が見つかりました。それはお宮に俳句を奉納した額で、俳句を詠んだ方々の名前と所属地名が記され、数名の方々の名前の上に「基山下」と記されていました。
■俳句奉納額
きやま(城山・木山・基山)



■「基山下」
きやま(城山・木山・基山)


 
 「文政十年」といえば1827年、江戸後期にあたり、4ヶ村合併前に既に「基山」の名称が使用されていたことが読み取れます。
 「基山下」が現在のどこにあたるのかは、現在探索中ですが、「基山」の漢字が江戸時代に既に使われていたことが分かる貴重な資料であることが分かります。
 この奉納俳句の額は、地域活動としてお宮の掃除に当会々員が関係した際に、偶然見つけたもので、地域活動に関係することの大切さが再認識された良い機会となりました。

 貴重な文化遺産は、意味を語られることなく当たり前に存在しているものも少なくありません。
 
 「意識の中に埋没しているモノ」を再認識する作業を通して、先人たちの歩みを知り、そこで交わされた多くの出来事に光をあて、未来を描いていきたいものです。

 あなたの傍にある様々なモノにも、先人たちの思い・地域の思いが隠されているかもしれません。

 周囲を見回してみては、如何でしょうか?



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 07:42 │Comments(0)基山の文化遺産

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