2023年08月15日
■第7回きやま創作劇をふか〜く知る(その13)
■「天智天皇奉賛銅柱(天智天皇欽仰之碑)」建設(その1)
昭和5年(1930)6月10日の「天智天皇奉賛銅柱」建設を建議したことに始まり、昭和8年の除幕式まで3ヶ年の年月で建造されます。いかに迅速な動きであったのかが伺えます。
昭和6年(1931)6月1日「基肆(肄)城趾に天智帝奉賛銅柱建設して御偉業を偲ぶ 半井知事を総裁として寄附募集【( )は筆者加筆】」として佐賀新聞に掲載され、同年6月16日の記事には「率先して寄附申込をなしたのは縣下有田工業学校(現 佐賀県立有田工業高等学校)職員生徒、福岡縣嘉穂郡幸袋工作所員等でその他各地から続々申込があり・・・。」と伝えています。県下で、何故、有田工業学校の職員・生徒の皆さんが率先して寄附してくださっているのか興味深いところです。
【天智天皇欽仰之碑(背面より)】
昭和8年(1933)6月10日の除幕式の折に肥前史談会の西村謙三会長のあいさつの中で、「中小学生諸君までをも網羅し全縣一致の共同建設・・・。」という言葉があります。このことを裏付ける写真資料が基山町内の個人宅に遺されており、現在の「天智天皇欽仰之碑」が建つ位置から南をみた写真で、たくさんの小学生が下山している様子が写されています。その写真の裏書に「学校生徒の砂袋運搬奉仕」と書かれており、西村謙三会長のお言葉を裏付けるように、多くの小学生までもが携わったことが分かります。
また、明らかにし難いところですが建造に携わった方々の「署名」が碑に納められていると云われており(佐賀新聞 昭和8年6月11日記事)、どこに納められているのか、それらを取り出して見ることはできないのか、いつものことですが、分かったこと以上に知りたいことが山積してきます。
【碑の鋳造者銘がみえる欽仰之碑】
昭和5年(1930)6月10日の「天智天皇奉賛銅柱」建設を建議したことに始まり、昭和8年の除幕式まで3ヶ年の年月で建造されます。いかに迅速な動きであったのかが伺えます。
昭和6年(1931)6月1日「基肆(肄)城趾に天智帝奉賛銅柱建設して御偉業を偲ぶ 半井知事を総裁として寄附募集【( )は筆者加筆】」として佐賀新聞に掲載され、同年6月16日の記事には「率先して寄附申込をなしたのは縣下有田工業学校(現 佐賀県立有田工業高等学校)職員生徒、福岡縣嘉穂郡幸袋工作所員等でその他各地から続々申込があり・・・。」と伝えています。県下で、何故、有田工業学校の職員・生徒の皆さんが率先して寄附してくださっているのか興味深いところです。
【天智天皇欽仰之碑(背面より)】
昭和8年(1933)6月10日の除幕式の折に肥前史談会の西村謙三会長のあいさつの中で、「中小学生諸君までをも網羅し全縣一致の共同建設・・・。」という言葉があります。このことを裏付ける写真資料が基山町内の個人宅に遺されており、現在の「天智天皇欽仰之碑」が建つ位置から南をみた写真で、たくさんの小学生が下山している様子が写されています。その写真の裏書に「学校生徒の砂袋運搬奉仕」と書かれており、西村謙三会長のお言葉を裏付けるように、多くの小学生までもが携わったことが分かります。
また、明らかにし難いところですが建造に携わった方々の「署名」が碑に納められていると云われており(佐賀新聞 昭和8年6月11日記事)、どこに納められているのか、それらを取り出して見ることはできないのか、いつものことですが、分かったこと以上に知りたいことが山積してきます。
【碑の鋳造者銘がみえる欽仰之碑】