2023年08月13日
■第7回きやま創作劇をふか〜く知る(その11)
■史蹟指定までの道のり(その3)
昭和に入り、史蹟指定へむけた動きが活発化する中、昭和5年(1930)秋に全国を席捲した風水害のため一時中断せざるを得ない事態も生じたようですが、同年12月には史蹟指定のための調査が黒板勝美博士(東京帝国大学教授)や佐賀縣・福岡縣の史蹟部門の専門官が来村し再度始まります。
昭和6年に入り、久保山先生が佐賀縣史蹟名勝天然紀念物調査員、基山村史蹟調査員に嘱託されますが、一方で、基山村の担当者が次々に変わり、佐賀縣・福岡縣の担当者が転出するなど、行政側の「姿勢」に「埒(らち)が明かず」と嘆きに近い言葉が遺されています。加えて、福岡縣側の調査費用が縣予算であるのに対し、佐賀縣側は村の予算しかなく、史蹟に対する縣行政側の姿勢の違いも記されています。
行政側の姿勢の違いにあいながら、昭和8年(1933)に調査のための予算がやっと認められ、昭和8年12月から昭和9年1月にかけて調査が完了し、縣当局から本省(文部省)へと報告されます。これで一安心かと思いきや、関係する基山村-筑紫・山口村の地籍内訳が不明との指摘を受け、「いろんなことでだんだん延び延びにな」ったようですが、このような状況を打破するために当時の古川佐賀縣知事の紹介で、久保山先生ご自身が文部省へ「出頭して促進方をお願い」に出向かれています。
やっとのことで、昭和12年(1937)4月に調査会(現在の文化庁文化審議会文化財部会)の議決も済み、昭和12年12月21日に史蹟指定の運びとなります。

【昭和12年12月21日官報第3292号告示】
出典:国立国会図書館ウェブサイト 2023年8月13日利用 原本写真データを抽出改変(指定地の地番については「省略」しております。)

【史跡指定記念式典 於天智天皇欽仰之碑前】
久保山先生が、「史蹟名勝天然紀念物保存法」を書写し基山村へ提出した大正12年から数えて14年の歳月が流れることとなったのです。
昭和に入り、史蹟指定へむけた動きが活発化する中、昭和5年(1930)秋に全国を席捲した風水害のため一時中断せざるを得ない事態も生じたようですが、同年12月には史蹟指定のための調査が黒板勝美博士(東京帝国大学教授)や佐賀縣・福岡縣の史蹟部門の専門官が来村し再度始まります。
昭和6年に入り、久保山先生が佐賀縣史蹟名勝天然紀念物調査員、基山村史蹟調査員に嘱託されますが、一方で、基山村の担当者が次々に変わり、佐賀縣・福岡縣の担当者が転出するなど、行政側の「姿勢」に「埒(らち)が明かず」と嘆きに近い言葉が遺されています。加えて、福岡縣側の調査費用が縣予算であるのに対し、佐賀縣側は村の予算しかなく、史蹟に対する縣行政側の姿勢の違いも記されています。
行政側の姿勢の違いにあいながら、昭和8年(1933)に調査のための予算がやっと認められ、昭和8年12月から昭和9年1月にかけて調査が完了し、縣当局から本省(文部省)へと報告されます。これで一安心かと思いきや、関係する基山村-筑紫・山口村の地籍内訳が不明との指摘を受け、「いろんなことでだんだん延び延びにな」ったようですが、このような状況を打破するために当時の古川佐賀縣知事の紹介で、久保山先生ご自身が文部省へ「出頭して促進方をお願い」に出向かれています。
やっとのことで、昭和12年(1937)4月に調査会(現在の文化庁文化審議会文化財部会)の議決も済み、昭和12年12月21日に史蹟指定の運びとなります。

【昭和12年12月21日官報第3292号告示】
出典:国立国会図書館ウェブサイト 2023年8月13日利用 原本写真データを抽出改変(指定地の地番については「省略」しております。)

【史跡指定記念式典 於天智天皇欽仰之碑前】
久保山先生が、「史蹟名勝天然紀念物保存法」を書写し基山村へ提出した大正12年から数えて14年の歳月が流れることとなったのです。
■令和6年度基肄城関連事業終了
■『基肄城を未来へつなぐ』企画展 開催中
令和6年度きやま創作劇『永遠(トワ)に君思う』始まり!
■令和5年度歴史散歩開催
■第7回きやま創作劇「むすび」の会
■「第15回きやま展」展示替え
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