2023年08月12日
■第7回きやま創作劇をふか〜く知る(その10)
■史蹟指定までの道のり(その2)
大正8年(1919)6月に施行された「史蹟名勝天然紀念物保存法(以下「保存法」)」でしたが、久保山先生が記されるには「地方に及ぼされてきたのは大正12年頃から」とされ、当時の基山村の鶴田村長(第7代村長 鶴田松之助氏)の嘱託に応じて保存法を書写し村役場へ提出されています。それが大正12年(1923)1月頃のことでした。
翌大正13年から佐賀縣の史蹟担当者、当時の国の担当部署である内務省の担当官が調査に入り大正14年(1925)5月には当時の齋藤佐賀縣知事も基肄城の実地調査に来村されています。しかし、大正13年秋頃から基山村の中で小作問題(小作争議)が起こり、史蹟指定へ向けた取組が一時休止という事態になったようで、「史蹟問題などの沙汰どころではなく」と記されています。
時は流れ、昭和3年(1928)に入り、後に基山尋常高等小学校校長となられる松尾禎作先生の紹介で肥前史談会とのご縁ができ、久保山先生は基肄城に関する論文を『肥前史談』へ掲載されるとともに、同年に発刊された『佐賀縣史蹟名勝天然紀念物調査報告』第一輯へ「基肄城址」の報文を載せられます。このご縁から、この年より肥前史談会による基肄城跡見学会や基山(きざん)での観月会が開催され、また佐賀縣による修学旅行の適地として推奨されたことから、佐賀縣内はもとより福岡・久留米など県外から多くの人々が基肄城へ押し寄せることとなります。当時の基山驛の田口驛長の談話として「一年間の累計十萬以上に達するのは確実だろう・・」と記されており、昭和5年の基山村民の人口が6,993人だったことをみると、約14倍の人々が押し寄せたことになります。

【基山驛碑】
この多くの人々が基肄城へ押し寄せたこと、特に昭和4年(1929)10月6日に肥前史談会主催の基肄城登山見学会が、「本(基肄)城址の顕彰宣伝上一線を画し」たとされ、翌昭和5年(1930)4月の肥前史談会主催による基山(きざん)山頂での、今宿佐賀縣知事を迎えた講演会が開催されるに至り、同年6月10日の「天智天皇奉賛銅柱建設の建議」へとつながっていきます。
大正8年(1919)6月に施行された「史蹟名勝天然紀念物保存法(以下「保存法」)」でしたが、久保山先生が記されるには「地方に及ぼされてきたのは大正12年頃から」とされ、当時の基山村の鶴田村長(第7代村長 鶴田松之助氏)の嘱託に応じて保存法を書写し村役場へ提出されています。それが大正12年(1923)1月頃のことでした。
翌大正13年から佐賀縣の史蹟担当者、当時の国の担当部署である内務省の担当官が調査に入り大正14年(1925)5月には当時の齋藤佐賀縣知事も基肄城の実地調査に来村されています。しかし、大正13年秋頃から基山村の中で小作問題(小作争議)が起こり、史蹟指定へ向けた取組が一時休止という事態になったようで、「史蹟問題などの沙汰どころではなく」と記されています。
時は流れ、昭和3年(1928)に入り、後に基山尋常高等小学校校長となられる松尾禎作先生の紹介で肥前史談会とのご縁ができ、久保山先生は基肄城に関する論文を『肥前史談』へ掲載されるとともに、同年に発刊された『佐賀縣史蹟名勝天然紀念物調査報告』第一輯へ「基肄城址」の報文を載せられます。このご縁から、この年より肥前史談会による基肄城跡見学会や基山(きざん)での観月会が開催され、また佐賀縣による修学旅行の適地として推奨されたことから、佐賀縣内はもとより福岡・久留米など県外から多くの人々が基肄城へ押し寄せることとなります。当時の基山驛の田口驛長の談話として「一年間の累計十萬以上に達するのは確実だろう・・」と記されており、昭和5年の基山村民の人口が6,993人だったことをみると、約14倍の人々が押し寄せたことになります。


【基山驛碑】
この多くの人々が基肄城へ押し寄せたこと、特に昭和4年(1929)10月6日に肥前史談会主催の基肄城登山見学会が、「本(基肄)城址の顕彰宣伝上一線を画し」たとされ、翌昭和5年(1930)4月の肥前史談会主催による基山(きざん)山頂での、今宿佐賀縣知事を迎えた講演会が開催されるに至り、同年6月10日の「天智天皇奉賛銅柱建設の建議」へとつながっていきます。
■令和6年度基肄城関連事業終了
■『基肄城を未来へつなぐ』企画展 開催中
令和6年度きやま創作劇『永遠(トワ)に君思う』始まり!
■令和5年度歴史散歩開催
■第7回きやま創作劇「むすび」の会
■「第15回きやま展」展示替え
■『基肄城を未来へつなぐ』企画展 開催中
令和6年度きやま創作劇『永遠(トワ)に君思う』始まり!
■令和5年度歴史散歩開催
■第7回きやま創作劇「むすび」の会
■「第15回きやま展」展示替え