2023年08月10日

■第7回きやま創作劇をふか〜く知る(その8)

■久保山善映先生の想い(その5)

 史蹟指定の基準、それこそが大正9年(1920)2月16日に出された「史蹟名勝天然紀念物保存要目(以下「要目」)」に記された「皇室ニ関係深キ史蹟」でした。

 昭和5年(1930)6月10日に肥前史談会にて「天智天皇奉賛銅柱(現 天智天皇欽仰之碑)」建設が建議され、翌昭和6年(1931)の6月10日に「建設趣意書」発表、さらに昭和7年(1932)6月10日に起工式が挙行され、昭和8年(1933)6月10日、今から90年前の「時の記念日」のこの日に「天智天皇奉賛銅柱」除幕式が挙行されます。
 
 その間、昭和7年(1932)7月23日には、大宰府の北の守りである大野城跡が「史蹟大野城跡竝四王寺阯」として指定されたことは、まさに「追い風」を得た感があったと想像できます。

■第7回きやま創作劇をふか〜く知る(その8) ■第7回きやま創作劇をふか〜く知る(その8)
【「大野城跡竝四王寺阯」史蹟石標】

 「皇室ニ関係深キ史蹟」の標ぼうする証として、「天智天皇欽仰之碑」が建設されました。

 実は「天智天皇欽仰之碑」の竣工を迎えた昭和8年以降、史蹟名勝天然紀念物として明治天皇聖蹟(明治天皇に関わる史蹟)が指定されていくことになります。昭和23年(1948)6月29日文部省告示第64号をもって「天皇崇拝の一形態。神道勢力への過度の予算支出になっている。」として指定解除になりますが、それまでに377箇所の明治天皇に関わる史蹟として指定されていったことを考えると、要目に記された「皇室ニ関係深キ史蹟」が指定基準とされたことの意味の一端が伺えるとともに、史蹟指定されるにあたって「何が基肄城には足りないのか。」と自問した時、自ずと到達する答えが見えてきます。

 そう、天智天皇が築かれた城であるという証として「天智天皇奉賛銅柱(天智天皇欽仰之碑)」が、築かれていった。

 久保山先生が取り組まれた「天智天皇築きし城」を標ぼうするために建てられた「天智天皇欽仰之碑」。けっして天皇崇拝を標ぼうする碑ではなく、多くの人々に基肄城を知って欲しい、そのための道のりとして国の第一種の史蹟に指定されることを目指すための一選択肢として、この碑が建てられたことが分かってきます。

 「史蹟名勝天然紀念物保存法」制定時に有識者がとった選択、当時の社会情勢に合わせることが史蹟や名勝、天然紀念物を保護するために最も効果的であったという有識者たちの戦略的判断であり、「名を捨てて実をとる」ことを久保山先生も選択された結果だったと想像できます。

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【天智天皇欽仰之碑】



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:46 │Comments(0)参画事業基山の文化遺産関連する文化遺産

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