2023年07月31日
■第7回きやま創作劇をふか〜く知る(その3)
■久保山善映先生の想い(その2)
事の発端は、大正2年(1913)7月の東京帝国大学教授で建築史学者であった関野貞博士によって、日本書紀天智天皇4年秋8月条に記される「椽城(基肄城)」が、佐賀県三養基郡基山村(大正2年当時)の基(肄)山(きざん)にあると断定されます。そのことを受け、久保山先生は大正4年(1915)に大正天皇御大典奉祝佐賀県教育品展覧会にて基肄城を略図、写真、出土古瓦、焼き米などを展示し説明されています。
さらに肥前史談会発刊の「肥前史談」紙面において「基肄城に就きて」を発表し、大正8年(1919)6月1日から施行された「史蹟名勝天然紀念物保存法」を受け各県で取り組まれた史蹟調査報告書である「佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告第一輯」の中で「基肄城址」を報告されています。
そのような中、大正10年(1921)3月3日には、「太宰府阯」「水城阯」が国の第一類(国家的なもの)の史蹟指定を受け、大正11年(1922)8月に史蹟石標が二つの史蹟に建てられます。

【左:「太宰府阯石標 右:水城阯石標】
なぜか、大正13年に史蹟指定前ながら基肄城跡の5箇所に遺構を説明するように佐賀県によって石標が建てられ、「太宰府阯」「水城阯」の石標建立に刺激を受けたかのような印象を受けます。

【『基山町歴史的風致維持向上計画』より抽出】
この頃からおそらく久保山先生の中では、基肄城の史蹟指定が頭の中に目指すべきものとして大きく広がっていったと想像できます。
※古代の役所である「だざいふ」は「大宰府」、中世以降現代の呼称は「太宰府」と使い分けていますが、大正時代では「大宰府」「太宰府」の使い分けがなされていなかったことが分かります。
事の発端は、大正2年(1913)7月の東京帝国大学教授で建築史学者であった関野貞博士によって、日本書紀天智天皇4年秋8月条に記される「椽城(基肄城)」が、佐賀県三養基郡基山村(大正2年当時)の基(肄)山(きざん)にあると断定されます。そのことを受け、久保山先生は大正4年(1915)に大正天皇御大典奉祝佐賀県教育品展覧会にて基肄城を略図、写真、出土古瓦、焼き米などを展示し説明されています。
さらに肥前史談会発刊の「肥前史談」紙面において「基肄城に就きて」を発表し、大正8年(1919)6月1日から施行された「史蹟名勝天然紀念物保存法」を受け各県で取り組まれた史蹟調査報告書である「佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告第一輯」の中で「基肄城址」を報告されています。
そのような中、大正10年(1921)3月3日には、「太宰府阯」「水城阯」が国の第一類(国家的なもの)の史蹟指定を受け、大正11年(1922)8月に史蹟石標が二つの史蹟に建てられます。


【左:「太宰府阯石標 右:水城阯石標】
なぜか、大正13年に史蹟指定前ながら基肄城跡の5箇所に遺構を説明するように佐賀県によって石標が建てられ、「太宰府阯」「水城阯」の石標建立に刺激を受けたかのような印象を受けます。

【『基山町歴史的風致維持向上計画』より抽出】
この頃からおそらく久保山先生の中では、基肄城の史蹟指定が頭の中に目指すべきものとして大きく広がっていったと想像できます。
※古代の役所である「だざいふ」は「大宰府」、中世以降現代の呼称は「太宰府」と使い分けていますが、大正時代では「大宰府」「太宰府」の使い分けがなされていなかったことが分かります。
■令和6年度基肄城関連事業終了
■『基肄城を未来へつなぐ』企画展 開催中
令和6年度きやま創作劇『永遠(トワ)に君思う』始まり!
■令和5年度歴史散歩開催
■第7回きやま創作劇「むすび」の会
■「第15回きやま展」展示替え
■『基肄城を未来へつなぐ』企画展 開催中
令和6年度きやま創作劇『永遠(トワ)に君思う』始まり!
■令和5年度歴史散歩開催
■第7回きやま創作劇「むすび」の会
■「第15回きやま展」展示替え