2020年09月29日

■「間宿」としての木山口町(その4)

 木山口町の南側には秋光川が流れています。今でこそ護岸され橋がないと川底まで高低差があるように見受けられますが、大正時代の石橋の姿をみると、川岸と川底にさほどの高低差もなく容易に渡れるような印象を受けます。

■「間宿」としての木山口町(その4)
■大正時代の高島橋の様子

 江戸時代の長崎街道に「橋」はあったのかという疑問については、防衛のためや運搬のための馬の脚を休めるためという理由で橋はなかったとする言説を耳にすることがあります。しかし、江戸時代後期の大田南畝という文人が木山口町を通過した際に記した紀行文『小春紀行』に、「土橋」という文字を二ヶ所記しています。文言の有り様から、かつての下桜町石橋と鎌割橋が架かっていた場所に「土橋」が架けられていたと推定できます。「土橋」とは、木製の橋で、路面部分に土を敷き木橋の凹凸をやわらげたものです。ということから、江戸時代の長崎街道には橋が架けられていた箇所があることが分かります。しかし、残念なことにこの紀行文には秋光川の橋については記されていません。
 川が何故、「街場」の形成に寄与しているのかについては、梅雨時のような増水期には渡ることができず、「川留」がなされ必然的に投宿を余儀なくされる事態となったと言われています。東海道の大井川では十日ほども川留がなされ、渡し場近隣の宿場は旅人で溢れかえったと伝えられています。
 秋光川が増水した際に「川留」がなされたかどうかは、不明ですが。大正時代の石橋の姿をみると、沈下橋的な姿を想像できますので、増水時に川を渡ることは困難であったかもしれません。

■「間宿」としての木山口町(その4)
■昭和23年頃の基山【米軍撮影の航空写真を抽出改変】

 このように、三国坂・三国峠、交通の結節点、河川など様々な地理的・歴史的な条件が重なり、木山口町に「街場」である間宿が形成されていったと考えられます。

■「間宿」としての木山口町(その4)
■現在の長崎街道付近の秋光川

 投宿する場である宿屋ができると、夕食が必要となります。当時は自前で干飯などを持参し、「木賃(薪代)」を払って自炊することが原則でした。いわゆる木賃宿です。その後、夕飯を出す旅籠へと様変わりするとともに、一日の疲れを癒す「百薬の長」がふるまわれるようになってきます。宿場町に造り酒屋が必ずあるのは、その時の名残といえるかもしれません。



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 22:38 │Comments(0)基山の文化遺産

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