2020年03月29日

■「かいどう」と「がいどう」(その1)

 我が町基山には、大里(現 北九州市)から長崎までを結ぶ長崎路、通称「長崎街道」が町域の東側を南北に通っています。

■「かいどう」と「がいどう」(その1)
●大里の港
■「かいどう」と「がいどう」(その1)
●大里宿本陣跡(お茶屋)の石碑

 また、現在の小郡市へは現在の国道3号上町交差点から南東に博多道が、基山町白坂から北東へは苅又道、同じく白坂から北西へは萩原越えの道など、様々な道路が江戸時代から現在までその名残を今に伝えています。

■「かいどう」と「がいどう」(その1)
●白坂の長崎街道と苅又道の分岐点
(正面が長崎街道、左手が苅又道)

 「長崎街道」を呼称する時、「ながさきがいどう」「ながさきかいどう」と二つの呼称を聞くことができます。多くの方々は「がいどう」と呼称されていますが、「がいどう」と「かいどう」どちらが正しいのでしょうか?

 結論を先に言えば、漢字の読みからすると「どちら」でもいいぐらいのことで、議論することでもありません。ただし、歴史的、社会的背景を知った上で、「どちら」でもいいということを知っておいてください。

 まずは、歴史的背景は、日本古代において九州は「西海道」、四国は「南海道」などと呼称され、江戸時代の京都から江戸までの道を「東海道」と記していたことは思い出してください。さらに、中世末期・近世初期の豊臣秀吉が九州征伐時の行軍路を記した『九州御動座記』に、「秋月云所非海道、山中難所・・・」と記され、さらに朝鮮出兵を挙行した時に記された文書、天正20年(1592)正月五日付の『掟』にも「・・・国々海道筋其外・・・・」と記されています。また、「唐津街道」もかつては「唐津海道」と呼称されていました。ここまで記すと、かつての主要道を「海道」と記しており、少なくともこの文字から「がいどう」という呼称には無理があることはお分かりいただけると思います。
 では、「海道」が「街道」に何故変わっていったのでしょう。

 話が長くなるので・・・・・つづく。



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 15:16 │Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産

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