2018年10月09日
■「あっ!危ない」・・・逆走?
基山町内の東側を南北に縦断する国道3号。基山(きざん)登山口信号から上町(かみまち)信号の間に差し掛かると、国道3号の下り線側の歩道のさらに外側に一本の舗装道路が走っているのをご存知でしょうか。国道3号を鳥栖方面へ下っていると、左側を「逆走」と見間違えるように上ってくる車を見かけます。

■「えっ、逆走?」「歩道を車が走ってる?」
見様によっては、丸幸ラーメン駐車場への専用道路のように見えますが、国道3号との基山(きざん)登山口交差点には、信号機が設置され、車道として機能していることが分かります。

■基山(きざん)登山口交差点
この道は、実は平成11年に現在の国道3号が拡幅されますが、その前に造られた国道3号の名残なのです。国道3号の歴史は、遡ること明治9年(1876)に江戸時代に造られた長崎街道が、東京日本橋から長崎港までを結ぶ道路として一等道路として認定され、その後、明治18年(1885)に国道4号として指定されます。この国道4号が軍用道路として役割を担わされると、明治20年頃に拡幅され現在の国道3号の原型が造り上げられます。その時の記録が、『梁井幾太郎の生涯』や『六区々有文書』に記されています。その後、大正9年(1920)に国道2号と改称され、路線も東京から鹿児島県庁所在地までが対象となっています。そして、昭和27年(1952)に新道路法が施行され現在の呼称である国道3号になりました。
話を戻すと、旧国道4号、旧国道2号が国道3号に引き継がれ、平成11年に拡幅工事によって現在の姿に変化します。その時、残された旧道路が、今回話題に上げた国道3号東側にある一条の道路なのです。


■上の写真で右端が国道4号、国道2号を引き継いだ国道3号
上町信号から東側へ曲りきやま台団地(10区)に入り込んだところに関屋川と合流した高原川を渡る橋脚が関屋橋として架けられています。この関屋橋は昭和50年に架橋され、その銘板に「旧国道線」として記され、橋を渡る道が旧国道であったことを告げています。

■関屋橋にある銘板

■「えっ、逆走?」「歩道を車が走ってる?」
見様によっては、丸幸ラーメン駐車場への専用道路のように見えますが、国道3号との基山(きざん)登山口交差点には、信号機が設置され、車道として機能していることが分かります。

■基山(きざん)登山口交差点
この道は、実は平成11年に現在の国道3号が拡幅されますが、その前に造られた国道3号の名残なのです。国道3号の歴史は、遡ること明治9年(1876)に江戸時代に造られた長崎街道が、東京日本橋から長崎港までを結ぶ道路として一等道路として認定され、その後、明治18年(1885)に国道4号として指定されます。この国道4号が軍用道路として役割を担わされると、明治20年頃に拡幅され現在の国道3号の原型が造り上げられます。その時の記録が、『梁井幾太郎の生涯』や『六区々有文書』に記されています。その後、大正9年(1920)に国道2号と改称され、路線も東京から鹿児島県庁所在地までが対象となっています。そして、昭和27年(1952)に新道路法が施行され現在の呼称である国道3号になりました。
話を戻すと、旧国道4号、旧国道2号が国道3号に引き継がれ、平成11年に拡幅工事によって現在の姿に変化します。その時、残された旧道路が、今回話題に上げた国道3号東側にある一条の道路なのです。


■上の写真で右端が国道4号、国道2号を引き継いだ国道3号
上町信号から東側へ曲りきやま台団地(10区)に入り込んだところに関屋川と合流した高原川を渡る橋脚が関屋橋として架けられています。この関屋橋は昭和50年に架橋され、その銘板に「旧国道線」として記され、橋を渡る道が旧国道であったことを告げています。

■関屋橋にある銘板
■オキナグサが咲いてます!
■令和6年度基肄城関連事業終了
■基肄城顕彰建造物 往時の景観を取り戻す
■『基肄城を未来へつなぐ』企画展 開催中
■令和6年度クロスロード文化講演会
■令和6年度 第8回きやま創作劇公演
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