2014年06月08日

肥前と筑後の分かれ道

 前回の紹介で、江戸時代の元禄年間に描かれた絵図には、関屋土塁を分岐として南に二つに分かれる道が描かれていることをお知らせしました。この分岐は、一方は長崎街道(長崎路)、また一方は筑後小郡へ行く道として考えられています。
 対馬藩側には、この絵図が残されているため、元禄年間の基山の状況がつぶさに分かるのですが、筑後小郡側、久留米藩の状況を示す元禄絵図が定かではないため、実は、この分岐がどこへつながる道であるのかを明らかにすることができません。改めて対馬藩宗家文書の貴重さを知る事ができます。

肥前と筑後の分かれ道


 さて古代大宰府があった時代に話を遡らせると、基山には「基肄駅」という施設が置かれていました。どこにあったのかを掴む資料がないため、諸説ありますが、平安時代中期(十世紀前半頃 菅原道真さんの時代から少し下った頃)に記された『延喜式(えんぎしき)』(当時の法律である『律令』の施行細則)の兵部省諸国駅伝馬条に、

肥前国駅馬 基肄十疋、・・・伝馬 基肄駅五疋
                    という規定が記されています。

 駅馬は情報伝達のための馬、伝馬は地域間を結ぶ道路を行き交う馬で、役割りが異なっていました。情報伝達のための馬が基肄駅には十疋、通行のための馬が五疋置かれていることが分かります。
 この馬の数は、実はさらに遡ること奈良時代、当時の法律である『律令』厩牧令(きうもくりょう)に定められていました。

凡諸道置駅馬、大路廿疋、中路十疋、小路五疋。使稀之処。国司量置。(凡そ諸道に駅馬置かむことは、大路に廿疋、中路に十疋、小路に五疋。使い稀らならむ処は、国司量りて置け。)」『律令』巻第九 厩牧令第廿三

 また、大路は、最重要道路として大宰府から都までの道が、中路は、東海道、東山道が、そしてそれ以外の道を小路と位置付けています。

 平安時代に記された『延喜式』には、大宰府から北側の各駅には十五疋から二十三疋という馬が置かれ、当時の法律である『律令』厩牧令をおおよそ守って駅馬が配置されていることが分かります。一方、大宰府から南側は、「小路」扱いされ、通常は「五疋」と規定されています。しかし、基肄駅だけが、大宰府以南において十疋と定められています。
 基肄駅は、大宰府の南の護りである基肄城の麓にあり、大宰府への情報伝達、さらには肥前・筑後といった大宰府以南の各国への情報伝達を担っており、各国への分岐の駅として、基肄駅の重要性を物語っているのです。

 ちなみに、「基肄駅」の場所は、①関屋土塁の南側、すなわち現在のJR基山駅付近とする考えや、②基肄城の南東部、城戸地区に推定する考えやなどがあります。



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