2020年03月30日

■「かいどう」と「がいどう」(その2)

 前回、主要幹線道路を中世以前は、「海道」と記されていたことをお伝えいたしました。

 では、「海道」が「街道」へと、何故変わっていったのでしょうか?
 そこには、社会的な人の動き(社会的背景)が関わってきます。

 「海道」として人々が道々を行き交うようになると、行き交う人々を賄う場、宿場や市場、舟渡場などが形成され、そのために周囲から人々が集まってきます。「集住」とも言いますが、人々が集まり「まち」をつくることで、「まち」すなわち「街」がつくられていくことになります。現代の我が町基山でも、住んでいる方々のハレとケの行事を調べると、国道3号やJR鹿児島線沿い住まう方々の生活習慣に統一感は見られませんが、一歩、これらの交通網から離れた場にお住まいの方々は統一感ある生活習慣を保持するとともに、基山の大型団地開発以前から国道3号やJR鹿児島線沿いに住まう方々の淵源を、周辺の集落の生活習慣を観察することで求めることができます。

 このことは、交通網が人びとを吸引し多様な地域から集まって暮らす集住空間を形づくる、いわば「都市」的な相互の関係性の「薄い」社会を形成していく場であることを物語っており、人々が行き交う道々に、集住空間「街」が形成され、いつしか文字が「海道」から「街道」へと変化していったと考えられます。

 江戸時代に我が町基山を描いた『正保国絵図』や『元禄国絵図』に、「小倉村」「城戸村」などの集落名称とは異なって、長崎街道沿いにある「木山口」「白坂」を、多様な人びとが集住する「まち(街)」であり行政的な領域の呼称である「まち(町)」として記していることの所以を、ここに見ることができます。

■「かいどう」と「がいどう」(その2)
●元禄国絵図(長崎県立対馬歴史民俗資料館蔵 抽出改変)

■「かいどう」と「がいどう」(その2)
●木山口町と白坂町の位置

 ここまで記すと「海道」→「街道」ですから、呼称も「かいどう」であるはずなのですが、「がいどう」と呼称する方が多いのは・・・、

 そう、西鉄朝倉街道駅の呼称が「あさくらがいどう」とアナウンスされていることや、漢字の読みを優先したことからきているのだと思います。

 時間的な流れを整理すると、

 「海道(かいどう)」→(人々が集住し街を形成)→「街道(かいどう)」→(西鉄朝倉街道駅開設・漢字の読み)→「街道(がいどう)」ということになります。

 余談ですが、駅名が地名呼称を変えてしまった例としてJR田代駅もその一つです。
 中世では「田代(たじろ)」と呼称されていましたが、明治時代に九州鉄道が開通し、駅呼称を「たしろ」としたことから、現在では「たじろ駅」ではなく「たしろ駅」として知られるようになり、いつしか地名も「たしろ」と呼称されるようになってしまっているのです。

 地名をはじめとして様々な事象にあてられる漢字や、その読み方には、その時々に生きてきた先人たちの思いや、時には「勘違い」が表現されていることを知ることも、歴史を学び知る楽しさの一つかもしれません。

 ※「街」は人々が集住する場を、「町」は行政的な領域を示す呼称として使い分けられています。

■「かいどう」と「がいどう」(その2)
■木山口町の北側、上町にあった長崎街道上の石橋
(現在は河川改修とともにコンクリート製の橋に架け変わっています。)



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