2019年06月23日

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために(その8)

4.国家力と同盟力の差を見せつけられた白村江の戦い

 天智2年(663)に激突した白村江の戦いは、海の干満差を敗因として倭国と百済の兵士の多くが戦死しました。敗因は海の干満差に多くを帰することに間違いはありませんが、その他に軍団編成、命令系統、基本的な軍備体制など多くの点で、唐軍と韓半島諸国軍ならびに倭軍に大きな差があったと言われています。

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために
●白村江の戦い【第3回公演】

 大きな差は、巨石に近い一枚岩軍団であった唐軍と小石の寄せ集め軍団であった百済・倭軍の差異に求められ、徴兵制によって支配圏内から人々を集約し、かつ軍制による一括統制を敷く、いわば国家的な軍団をぶつけてきた唐軍と、各豪族たちの規律で統制された軍団を、盟主である大和大王族の命令を豪族が一旦受けとめ、可否を選択した後攻めに転じるという私兵の寄せ集め的軍団の差であったといわれています。
 さらに、軍備についても軍団構成の全てが物語るように、国家的な制度の下で編成された国内の優秀な技術を用いて生産工房群で一括生産された軍備と、各豪族の持つ生産工房で各々の特徴を有する軍備、いわば「斑」のある軍備を持ち戦うことの優劣は、自ずと想像できます。

 これら全てを表現したイメージで、国家軍団 唐軍vs同盟軍団 倭国軍の差を周到に表現した図が、下記書籍に描かれています。機会があれば御覧ください。

●白村江の戦い(『週間 新発見!日本の歴史10 飛鳥時代2』に掲載)

 この敗因を、起こり得るべくして起こった、必然だと認識していた二人の兄弟がいました。
 そう、劇中のキーパーソンの二人である中大兄皇子と大海人皇子の兄弟です。この二人は、国家機構を創り上げることを大王族の先達であった厩戸皇子(聖徳太子)から受け継ぎ、模索していたのです。
・・・・・・【つづく】



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