2019年06月20日

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために(その6)

3.策士 金春秋(新羅王太宗・武烈)の狙い

 素朴な疑問として、何故、倭国は百済復興軍を組織し、当時、無謀ともいえる大帝国・唐との戦いに突入していったのでしょうか?その鍵を握る人物が、金春秋でした。
 金春秋、新羅王族であり後の第29代新羅王で、諡(おくりな)を武烈、号を太宗とする人物です。生まれは定かではありませんが602年頃から661年を生き、新羅王武烈としての在位期間は654年から661年で、百済滅亡の翌年に崩御しています。

■創作劇『こころつないで』を、ふか~く楽しむために
●太宗武烈像【金 春秋】

 金春秋は、韓族を一つにし、大陸の脅威・唐を排除するために高句麗、倭との和親を取り付ける外交手段に出ています。金春秋の思いは、高句麗と百済は、元来同族でありながら何故争い続けるのか。また韓半島に暮らす人々が何故争い、多くの血を流す必要があるのかという問いに悩みます。そこで、642年に高句麗へ、647年に倭に、そして648年に唐へ自ら出向いた記事が『三国史記』新羅本紀および『日本書紀』に記されています。1370年前、命がけでの航海が当たり前であったこの頃に、7年間の間に3ヶ国を巡り、特に倭から唐へは僅か1年の間に動いているこの状況の裏に何があるのでしょうか?

 高句麗と唐への外交交渉は、韓半島で新羅にとって直近の脅威であった対百済対策であったことは想像できます。そして倭への外交は、新羅にとって百済に対して背後に位置する倭の情勢を探るという目的は一つ考えられますが、もう一つの目的が見えてきます。倭に「質(人質)」として17年間滞在していた百済の王族扶余豊璋(余豊璋)の動静と倭との親密度を探ることではなかったかと言われています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【つづく】



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:25 │Comments(0)基山の文化遺産

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