2018年06月21日

■「草莽の民」(その8)

■二国境・三国境(その2)
 当初の目的であった肥前・筑前の二国境の協議は、2年後の文化4年(1807)から再開され、国境の目印に再び松を植えると近くの田に日陰が生じるとして石柱にすることとあいなりました。4月18日から石柱製作に取り掛かりましたが、再び二者の見解に相違あることが明らかとなります。そこで、御境目方藤本惣七が枯れた松を取り除き、問題となる地を測量した上で等分に分けることを提案します。これを二人は受け入れ、5月9日~14日にかけて枯れた松を取り除き、15日から測量に入りましたが、そこでも二人は対立。今度は肥前国姫方村庄屋定右衛門が仲介し、5月18日に基礎石を据え改めて証文を交わし、文化4年8月17日に二国境石設置が完了することになったのです。
 この時建てられた二国境碑は、主標の中央標石に「従是西肥前国對州領」「従是東筑前国」と記され、主標一つでは1点でしかないため、主標を中心とし北と南に傍示石を置き、国境を直線で表現しています。また、国境線を表現するために、両国銘を記した傍示石を背中合わせにし、合わさった面が国境として表現されています。

■「草莽の民」(その8)
■二国境石(二つの石の合わせ目が国境線を表現しています。)
■「草莽の民」(その8)
■主柱石
 現在国道3号西側に、この時の国境石が移設され、主標は当時のものが、傍示石はレプリカが置かれています。当時の傍示石は、現在国道3号の中のもとあった場所に埋設されています。
 交差点の名称となっている「三国境」は、アマンディ―東方の小山の上に、この争論時に三つの国で議論し建てられた三国境石が現在も建っています。この三国、つまり肥前-筑前-筑後の境を示す地という意味で「三国境」という交差点名になっています。この三国境標石がある小山は、学校用地となっているため、必ず下にある麻生学園小学校に申し出て見学するようにしてください。

 この「枯れ松国境争論」について、現代の研究者による報告がなされていますが、これまた基山町側、筑紫野市側で若干記載されている内容が異なっています。以下に文献を記しておきますので、読み比べてみてください。

■文献
基山町 2009 『基山町史』下巻 166頁~168頁 「枯松跡国境石」
筑紫野市教育委員会 1994 『筑前原田宿 歴史資料調査』 「御境石建覚書」について



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:24 │Comments(0)参画事業基山の文化遺産

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