2018年06月17日
■「草莽の民」(その6)
ここからは、劇中に取り上げられる基山の文化遺産について解説します。
きやま創作劇の基盤は、基山にある歴史や文化を素材とし、基山でしか描けない劇を創ることです。ですから、人物・衣装・小道具・大道具・セリフ、そしてこれらが絡み合って姿となる演劇に基山でしか描けない舞台ができあがり、これがひいては個性豊かな劇につながっていきます。これは言い換えると、基山に来ないと観ることができない創作劇(個性)だとも言えます。
■長崎街道
創作劇では、「長崎街道二国境」の場面が登場します。
「二国さかい~っ????」という方もおられるでしょう。「三国境」といえばお分かりの方もおられるかもしれません。そう国道3号を北上するとお隣の筑紫野市との境に「三国境」という交差点があるのはご存知ですね。最近のドライブナビゲーターでは、「福岡(佐賀)県に入りました!」と告げる場所です。この交差点の西側(上り車線側では左手)に「二国境の石碑」が移設され残されています。また、国道3号のこの交差点上り車線側の道路上に3つのマンホールの蓋が一直線に並んでいるのを併せてご覧ください。このマンホールがある場所に、本来は二国境の石碑が建っていました。国道3号拡幅時に、道路西側に移設されています(くれぐれも運転者の方は、よそ見しないようにお願いします。国道3号上り側には駐車場もありますので、ご活用ください。また、この二国境の石碑の物語は、回を改めて語りましょう)。
●移設された二国境碑がある「広場」
●二国境碑
この二国境の東側、下り車線東側に北九州市大里から長崎を結ぶ長崎街道が通っています。現代の交通路(国道3号やJR鹿児島線など)に重なり、または削られ、面影は失われていますが、我が町基山にも切れ切れながら長崎街道を偲ぶことができます。
●基山町内の長崎街道(太い赤線)
この長崎街道は、
●明治9年(1876)には、東京市(現在の東京日本橋)~長崎港までを太政官達(だじょうかんたっし)によって1等道路としています。
●明治18年(1885)には同路線を国道4号に、また鳥栖市田代宿より分岐し熊本鎮台へ至る道路を国道11号としています。
●大正9年(1920)には新たな道路法が施行され、東京から鹿児島県庁所在地までを国道2号に、鳥栖市桜町から分岐し長崎までを国道25号に改称しています。ちなみにこの大正9年に施行された道路は、「主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線」とされ、多くの重複路線があり、国道1号と2号は三重県四日市まで重複し、ここより分岐するとされています。
●昭和27年(1952)に道路法が改正され、国道2号を国道3号に、国道25号が国道34号に改称され現在に至っています。
※明治9年(1876)に記された『基肄郡村誌』に、現在のけやき台駅東にある「鎌割橋」についての記載があり、そこには鎌割橋の構造について「石造」の文字が見えるとともに、1等道路とされている長崎街道について「東京街道」という呼称も見ることができます。
●現在の国道3号(白坂)
今もむかしも多くの人、物が行き交う長崎街道・国道3号には、多くの物語が残され、今も行き交う人びとの中に想い出として新たな物語が紡がれています。
きやま創作劇の基盤は、基山にある歴史や文化を素材とし、基山でしか描けない劇を創ることです。ですから、人物・衣装・小道具・大道具・セリフ、そしてこれらが絡み合って姿となる演劇に基山でしか描けない舞台ができあがり、これがひいては個性豊かな劇につながっていきます。これは言い換えると、基山に来ないと観ることができない創作劇(個性)だとも言えます。
■長崎街道
創作劇では、「長崎街道二国境」の場面が登場します。
「二国さかい~っ????」という方もおられるでしょう。「三国境」といえばお分かりの方もおられるかもしれません。そう国道3号を北上するとお隣の筑紫野市との境に「三国境」という交差点があるのはご存知ですね。最近のドライブナビゲーターでは、「福岡(佐賀)県に入りました!」と告げる場所です。この交差点の西側(上り車線側では左手)に「二国境の石碑」が移設され残されています。また、国道3号のこの交差点上り車線側の道路上に3つのマンホールの蓋が一直線に並んでいるのを併せてご覧ください。このマンホールがある場所に、本来は二国境の石碑が建っていました。国道3号拡幅時に、道路西側に移設されています(くれぐれも運転者の方は、よそ見しないようにお願いします。国道3号上り側には駐車場もありますので、ご活用ください。また、この二国境の石碑の物語は、回を改めて語りましょう)。
●移設された二国境碑がある「広場」
●二国境碑
この二国境の東側、下り車線東側に北九州市大里から長崎を結ぶ長崎街道が通っています。現代の交通路(国道3号やJR鹿児島線など)に重なり、または削られ、面影は失われていますが、我が町基山にも切れ切れながら長崎街道を偲ぶことができます。
●基山町内の長崎街道(太い赤線)
この長崎街道は、
●明治9年(1876)には、東京市(現在の東京日本橋)~長崎港までを太政官達(だじょうかんたっし)によって1等道路としています。
●明治18年(1885)には同路線を国道4号に、また鳥栖市田代宿より分岐し熊本鎮台へ至る道路を国道11号としています。
●大正9年(1920)には新たな道路法が施行され、東京から鹿児島県庁所在地までを国道2号に、鳥栖市桜町から分岐し長崎までを国道25号に改称しています。ちなみにこの大正9年に施行された道路は、「主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線」とされ、多くの重複路線があり、国道1号と2号は三重県四日市まで重複し、ここより分岐するとされています。
●昭和27年(1952)に道路法が改正され、国道2号を国道3号に、国道25号が国道34号に改称され現在に至っています。
※明治9年(1876)に記された『基肄郡村誌』に、現在のけやき台駅東にある「鎌割橋」についての記載があり、そこには鎌割橋の構造について「石造」の文字が見えるとともに、1等道路とされている長崎街道について「東京街道」という呼称も見ることができます。
●現在の国道3号(白坂)
今もむかしも多くの人、物が行き交う長崎街道・国道3号には、多くの物語が残され、今も行き交う人びとの中に想い出として新たな物語が紡がれています。