2020年09月30日

■「一里塚」跡

 我が町基山を縦断する長崎街道のどこかに一里を示す塚や山、松はあったのかという問いに応える痕跡や根拠を見つけることが、なかなかできませんでした。松やエノキが植えられているところ、塚の痕跡などがあれば示すことができたのでしょうが、なかなか見出すことができませんでした。
 白坂の中にエノキがあるため、そこではないかというご意見もありましたが、ひょんなことから一気に解決の糸口が見えてきました。

 平成31年2月に基山町定住促進課が開催した「まちづくりシンポジウム」で来町された、国土交通省の一言太郎様の苗字の由来を調べていた時に、遠江国の一言村の存在を知り、『遠江国絵図』をみると街道沿いに二点の●丸がたくさん描かれていることに気付きます。もしかしてと『国絵図』に関する情報を収集すると、その二点の●丸印こそが一里を表現したものだったのです。


●『遠江国絵図』から抽出改変

 我が町基山を描く、対馬藩領『元禄国絵図』をあらためて見直すと、田代宿に一ヶ所、そして我が町基山の木山口町の北側の入口、今の国道3号「上町」信号附近に一ヶ所描かれていることに気付きました。加えて、田代宿の一ヶ所には「一里山」の文字も書かれており、確信を得ることとなったのです。


●対馬藩領『元禄国絵図』 田代(たじろ)宿部分を抽出
(「一里山」の表記とともに●丸印が見られます。)


●対馬藩領『元禄国絵図』 木山口町部分を抽出

 何故、『遠江国絵図』では気づき、対馬藩領『元禄国絵図』では気づかなかったのかというと、一里は約3.93kmで、対馬藩領である基肄郡と養父半郡の広さでは二ヶ所しか描くことができなかったということが分かりました。『遠江国絵図』では、現在の静岡県西部の広さが一枚に描かれていることから、多数の一里塚、一里山などが描かれていたことで、よく目についたということが大きな違いであったと思います。


 『国絵図』について深い知識のおありの方なら、当たり前のことだったのかもしれませんが、知った時が分かった時で、一種の「アハっ!」体験でした。この一里塚・一里山表記には、実は『国絵図』を描くための「作法」「決まり」があったことを後に知ることになります。

 それは・・・・・(つづく)。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:28Comments(1)基山の文化遺産

2020年09月29日

■「間宿」としての木山口町(その4)

 木山口町の南側には秋光川が流れています。今でこそ護岸され橋がないと川底まで高低差があるように見受けられますが、大正時代の石橋の姿をみると、川岸と川底にさほどの高低差もなく容易に渡れるような印象を受けます。


■大正時代の高島橋の様子

 江戸時代の長崎街道に「橋」はあったのかという疑問については、防衛のためや運搬のための馬の脚を休めるためという理由で橋はなかったとする言説を耳にすることがあります。しかし、江戸時代後期の大田南畝という文人が木山口町を通過した際に記した紀行文『小春紀行』に、「土橋」という文字を二ヶ所記しています。文言の有り様から、かつての下桜町石橋と鎌割橋が架かっていた場所に「土橋」が架けられていたと推定できます。「土橋」とは、木製の橋で、路面部分に土を敷き木橋の凹凸をやわらげたものです。ということから、江戸時代の長崎街道には橋が架けられていた箇所があることが分かります。しかし、残念なことにこの紀行文には秋光川の橋については記されていません。
 川が何故、「街場」の形成に寄与しているのかについては、梅雨時のような増水期には渡ることができず、「川留」がなされ必然的に投宿を余儀なくされる事態となったと言われています。東海道の大井川では十日ほども川留がなされ、渡し場近隣の宿場は旅人で溢れかえったと伝えられています。
 秋光川が増水した際に「川留」がなされたかどうかは、不明ですが。大正時代の石橋の姿をみると、沈下橋的な姿を想像できますので、増水時に川を渡ることは困難であったかもしれません。


■昭和23年頃の基山【米軍撮影の航空写真を抽出改変】

 このように、三国坂・三国峠、交通の結節点、河川など様々な地理的・歴史的な条件が重なり、木山口町に「街場」である間宿が形成されていったと考えられます。


■現在の長崎街道付近の秋光川

 投宿する場である宿屋ができると、夕食が必要となります。当時は自前で干飯などを持参し、「木賃(薪代)」を払って自炊することが原則でした。いわゆる木賃宿です。その後、夕飯を出す旅籠へと様変わりするとともに、一日の疲れを癒す「百薬の長」がふるまわれるようになってきます。宿場町に造り酒屋が必ずあるのは、その時の名残といえるかもしれません。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 22:38Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月28日

■「間宿」としての木山口町(その3)

 木山口町の北側、現在の国道3号と長崎街道が交わるところに、「上町」信号があります。この「上町」信号を西側・木山口町側から渡りほんの少し東に進むと、北と南に行く分かれが出てきます。北方向は長崎街道、南方向は小倉村を通って小郡へ至る通称「博多道」です。



 江戸時代は、長崎街道と筑後方面への路の分かれですが、奈良時代では基肄驛を分岐とした官道であったと推定されています。

 詳細については、本ブログの2014.6.8版を御覧ください。

 この博多道をたどり小郡方面へ行くと鳥栖から東へ行く秋月街道と合流し、さらに東へ進むと松崎宿からは薩摩街道への分岐へ至ります。我が町基山が交通の結節点といわれる所以がここにあります。・・・(つづく)。
  


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2020年09月27日

■「間宿」としての木山口町(その2)

 地理的な場所性、それは木山口町と北の原田宿の間にある「三国坂」「三国峠」であり、木山口町の南を流れる秋光川、そして古代以来の筑後方面への路との分岐点としての交流の結節点であったことが、場所性を表現しています。
 街道を歩くと体感できますが、「峠」「坂」を越えるエネルギーは大変なもので、越える前と後での一休みは欠かせません。

 おっと、「三国」の坂や峠がそんなに大変なモノ?

 現在は、国道3号が原田で高架化され、標高差を感じることができなくなっているので、「そんなに大変なの?」とお感じかもしれません。江戸時代に原田宿を描いた絵に、「三国坂」と記された山のような姿が描かれています。絵画に客観性を求めることは困難ですが、描き手の感じ方が描写されていると考えれば、「険しい山」として原田宿側からは認識されていたことが分かります。



 話を戻して、「坂」や「峠」を越える前と後での一休みや、明るいうちに「坂」「峠」を越えることができなかった時の休み場として木山口町が機能していたと考えられます。「坂」「峠」につきものなのが、「山賊」「盗賊」「追いはぎ」でしょう。かつては、集落と外界の境、危ない空間、多くの人びとの命が失われた場として「坂」「峠」が社会的認識下にありました。過日の本ブログ(2018.6.23版)でも紹介しましたが、かつて三国境には塔婆の一つである宝篋印塔が建てられていました。現在は、原田にある伯東寺に移設されています・・・・・(つづく)。


●笠の開き具合から江戸時代以降に造られたモノと考えられます。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 08:16Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月26日

■「間宿(あいのしゅく)」としての木山口町(その1)

 話がだいぶそれました。木山口町の話に戻しましょう。

 木山口町は、長崎街道沿いにある街場であり、多様な価値観を持った人々が集住した「都市」的な空間であったと記してきました。一方で、木山口町は長崎街道の正式な宿場町としては記されていません。木山口町近傍の正式な宿場は、北は原田宿(福岡県筑紫野市)、南は田代宿(佐賀県鳥栖市)で、その間にあるということで「間宿(あいのしゅく)」と呼称されています。
 木山口町がある地域の字(あざ)名に「宿」とする場所があり、宿場街であったことを知ることができます。


■字名「宿」の範囲

 正式な宿場町ではないにも関わらず、なぜ人々が集住し「町」をつくってきたのでしょうか。
 それを読み解く鍵は、木山口町がある地理的な場所性にあります。・・・・・(つづく)
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:05Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月26日

●余談(おまけ)

 ちょっとおまけ(余談)です。

 避難所では、行政機関(役場)は限られた職員で住民救助・支援にあたります。
 そこで動き出すのが、住民組織である行政区や隣組です。限られた職員、マンパワーで住民支援を行う時、区長-隣組長の流れにそって支援物資を配ることができなければ、個々人に一人ひとり、家族個々にひとり一人、行政職員が配ることになります。どれだけのエネルギーがいるのかは、想像できると思います。行政職員にしかできないこと、区長-隣組長にしかできないこと、住民にしかできないことがあります。皆が応分の負担を背負うことで効率的に支援物資が配給される現実を、東日本大震災のレスキュー現場で見て学びました。
 支援物資の受け渡しのみならず、平成30年(2018)7月に我が町きやまを襲った豪雨の時、基肄城の麓にある丸林地区の皆さんは声を掛け合って避難されたと聞きました。大規模な被災住宅があったにも関わらず、亡くなられた方がいなかったことは、不幸中の幸いであるばかりでなく、皆さまの日頃の隣付き合いの素晴らしい結果だと思います。



●平成30年7月の豪雨災害(丸林地区の様子)

●特別史跡基肄城跡南水門の被災状況
(令和2年度から歴史的風致形成建造物保存修理として、この時被災した南水門にある住吉神社の修理設計が始まっています。)

 「元気」な故に、隣組に入らない方、「お一人様」ですごされる方が増加中です!
 平和な時は「大丈夫」でしょう。しかし、昨今は、50年に一度という想定の豪雨が毎年起こっています。ひとたび被災すれば、行政力ではどうしようもない現実が待っています。みんなから「捨てられる」個人・家族になる前に、皆で助け合う社会を、皆で築く努力をお願いします。

 『人はひとりでは「死ねない」』

 誰かのお世話で自分の亡骸は処理されることは知っておいてください。
 縁故が辿れない方は、御遺体が発見された自治体の担当部署の長の印鑑がなければ火葬もできないのです。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 10:32Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月25日

■「町」と記された木山口町(その3)

 これこそ、生活の糧を求めて都市的な場である街道筋に集住した人々の姿をみることができるのです(これも、昭和40年代以前の方々に「限定」されるかもしれません。1970年代以降の高度経済成長下の大規模造成による宅地開発によってもたらされた多様な人びとの集住、言い替えると「団地」の形成によって地域の個性が失われ「多様」な価値観・習俗が混在する、換言すると「都市」的な関係で集住する「団地」「宅地」が日本の此処そこに造られていったからです)。
 多様な地域から集住する場、それこそが「町」として表現されている社会的空間であり、歴史的に長く住み続け、地縁血縁で結ばれた空間が「村」として表現された場なのです。
 都市的な場である「町」と村落的な場である「村」のいいところ悪いところが各々ありますが、今、「おひとり様」が増加し孤独死が多くなっている現代社会、さらに豪雨災害で避難を余儀なくされる現代社会において、日頃の助け合いを拒否される「お一人様」は有事の際に多くの手がいる方々であることをそろそろ自覚された方がよいと思える今日この頃です。
 みんなで役割分担し、住民も事業者も役場もみなで「自助」・「共助」・「公助」することが、コンパクトな行政機関(多額の税金をつぎ込まない自治体)をつくる方法だと思います。


■東日本大震災(多賀城市)で見た、川の上に「建つ?」家


■多賀城市の避難所で食事が配られる様子
(全国からレスキュー部隊としてお手伝いに駆けつけていました。)


■この時、配給された夕食(「温かい」というだけで幸せになりました。)

  これは、東日本大震災のレスキューに行って学んだことです。

※自助・共助・公助は、人の意識の根底にある、まずは自分のことは自分で行う、自分のできること以上の苦難が出てきたら周囲のみんなと協働する。さらにみんなでできない苦難が生じてきたら、もっと大きな公的な力で動く。でも、まずは自分の事は自分でやってみよう。という単純なことを表現した言葉です。自分の事を自分でやったことがない、やりたくない方々が、この言葉をネガティブにとらえて広言している方々がいるので、日本の社会も「平和」なものだと悲しくなります。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 21:00Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月24日

■「町」と記された木山口町(その2)

 身近な方々からの聞き取りで分かってきましたか?

 料理の話もそうですが、苗字ではなく名前で呼ぶ土地柄からも分かってきます。何故、苗字ではなく名前で呼ぶのか?「飛松さん」「松田さん」「天本さん」「山本さん」・・・・ではなく、「一郎さん」「健一さん」「晃さん」などなど、我が町基山では、苗字で呼ばれるのではなく名前で呼ばれることが多々あります。それは、何故でしょう?

 村落的な社会では、同族集団で構成されるため、苗字で呼んでも個人を特定できないので、苗字ではなく名前で呼称される場面が多々あるのです。同族集団で形成される社会、それが「村落」的な社会といえます。もうお気づきでしょう、「村落」的な社会では、同族的つながりの社会ですので、ハレの場やケの場での料理は、そこ此処のシキタリに沿って料理が作られます。ハレの場であるお正月の料理で統一観を持つ社会、同じような苗字の方々で構成される社会が「村落」的なつながりのある社会で、料理に限らず様々な要素で統一観の無い多様な社会が「都市」的な相互の関係性が希薄な社会ということになります。


●5区のこもったきでの料理


●6区丸林のお祭りでの料理

 この「村落」的な場こそが、「村」であり、よそ者で形づくられた場が「都市」的な場であり『正保国絵図』や『元禄国絵図』に記された「町」と考えられます。それを裏付けるように、木山口町に今お住まいの方々にハレの場の料理などをお聞きすると、統一観のない多様なことがおこなわれています。一方で、丸林、城戸、小松などの集落では、同じ料理、行事が今も行われています。
 しかし、福岡市のように広域な場から集住している地域と異なるのは、木山口町の方々の一見「バラバラ」な行為も、元をたどれば基山町内の集落のどこかと一致する事例を、まだ見ることができ、その方々にルーツをお聞きすると、「なるほど・・・」と思える町内の集落にたどり着くことができることがままあるのです。・・・・・(つづく)
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:15Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月23日

■「町」と記された木山口町(その1)

 木山口町の起こりを知ることができる『元禄国絵図』や『村絵図』には、「村」と記される集落と「町」と記される集落の二者があることに気付きます。中には「赤坂」などどちらにも属さない集落を加えると三者あることになります。「町」に共通する点として長崎街道筋にあり、「正保二年(1645)以後ノ新町」と記されていることに共通点があります。一方、「村」と記された集落には、「正保二年以前ノ・・・」などの村の起こりや街道筋から離れた集落に記されていることが読み取れます。残された「赤坂」のように「村」とも「町」とも記されていない集落は長崎街道沿いに見ることができます。


■『元禄国絵図』『宮浦村絵図』:長崎県立対馬歴史民俗資料館蔵

 「町」と「村」の違いは何なのでしょうか?それを読み解く鍵として、今(現代)、それぞれの集落で執り行われている様々な行事、特に、料理を見ると、その違いのヒントを掴むことができます。
 お正月、お盆、日常など、一年の中でどのような料理が作られ食卓に出されているのかをみることで、「町」と「村」の違いを読み解くことができるのです。

 さぁ、皆さん、今、お住まいの団地、集落の人びとに聞き取りを行ってみてください(まずは、御家族の会話のネタに、ご家庭のお料理の作り方から観察・聞き取りをしてみては如何・・・?)。「お正月のお雑煮の出汁の取り方(鶏、飛魚、鰹・・)は?」「お雑煮のお餅の形(丸、四角)は?」「お盆の時に出す料理は?行事は?」。最も顕著に表現されるのは、お正月のお雑煮の出汁と具材、そしてお餅の形でしょう。
 みん~な、同じと思っている方、世間・社会を知らなさすぎです・・・!。(『ケンミンショー』を、ぼ~~っと観ていてはいけません!)

 家の個々で統一観の無い場所と、お隣も、そのお隣もみんな同じである場所の二つに分けられると思います。

 そう、家の個々で統一観の無い場所は、どんなところだったでしょうか?
 一方で、お隣もそのお隣も、皆同じだったところはどんなところだったでしょうか?・・・・・・・・・(つづく)
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 10:13Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月22日

■木山口町(きやまぐちまち)の歴史・文化遺産

 これまで、当会のブログにて木山口町に関わる文化遺産を16回ほど紹介してきました。現代の木山口町は、JR基山駅、甘木鉄道基山駅がある場所であり、長崎街道が通った江戸時代に遡る街場として、まさに基山の玄関口として今も昔も機能してきた町なのです。

 「木山口町」として2014年6月15日の記事に紹介しておきましたが、木山口町の起こりは、江戸時代、元禄年間(1688年~1704年)に描かれた『元禄国絵図』に「正保二年(1645)以後ノ新町」と記されていることから、この頃、「街場」を形成したものと考えられています。この『元禄国絵図』には、同時期に形成された「町」として、「白坂町」「今町」などいずれも長崎街道沿いの「街場」が記されていますので、長崎街道の整備と強く関わった「町」であることが想像できます。


■木山口町の文化遺産

 この木山口町の名称は、江戸時代の文書に「基八間山の入口故、木山口町と名付ける。」と記され、「きやまぐちまち」の呼称のとおり、基山(きざん)の入口にあたるという地理的・社会的な位置から呼称されたことが分かります。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 17:27Comments(0)基山の文化遺産

2020年09月16日

■木山口町まちづくり協議会 研修会への支援

 本日、午後1時から、基山モール商店街の中にある「まちなか公民館」で、木山口町まちづくり協議会の研修会へ、講師として本会の副理事長が講話を行いました。


●講話の様子

 木山口町まちづくり協議会は、令和2年7月29日に発足した協議会で、我が町きやまの玄関口、JR基山駅周辺のまちづくりを進めていくために立ち上げられた協議会です。契機は、平成31年1月に文部科学省・農林水産省・国土交通省の三省共管事業計画である『基山町歴史的風致維持向上計画』が国に認定され、様々な現代社会が持つ問題(空家、空き店舗、コミュニティの崩壊など)を解決する手法の一つとして、日本の個性である「歴史」を生かしたまちづくりを進めるために、関係する住民-事業者の方々に参集いただき、皆さんの持てる「知恵」と「力」と「技」を持ち寄る組織として立ち上がりました。
 落ち着いた語りで参集した皆さんを取りまとめられる協議会会長の元、これからの木山口を担う多様な人材で構成される協議会です。

 本日の研修会では、全国で起きている様々な社会問題を取り上げ、それらを解決する手法の一つとして、日本の個性であり、佐賀県の個性、そしてどこにもない基山の個性である歴史を生かしたまちづくりについて講話を行いました。その後、木山口町の長崎街道沿いの街並みの姿を再確認してみました。壊れかけている歴史的建築物や、再生された歴史的建築物など、今の長崎街道沿いの木山口町の姿を再認識できたところです。


●若宮八幡神社境内に建つ「松隈来造翁碑」前で説明に聞き入る皆さん
※松隈来造氏は、基山の商業発展に大変尽力された方で、木山口町まちづくり協議会のメンバーとしては、絶対忘れてはならない方です!
 
 自分たちのまちは、自分たちで「知恵」と「力」と「技」を持ち寄って創る。そして創った後は、自分たちで「育て」「生かし」「使う」ことが必要です。これまで行政機関がやってきた「御上」的設計プランの提示と、住民不在の工事では、住民意識の醸成など望めないどころか、管理は全て行政機関へという結果は見えています。自分たちで創るからこそ、愛着が芽生えてくるものです。

 長崎街道沿いにある実松川の河川改修工事については、単に河川改修に終わらせるのではなく、親水空間の創出や、螢が乱舞する場を生かした癒しの空間創出の話で盛り上がっていました。当然のことながら、基山商店の前ですので、酒宴を兼ねた癒しの場の創造であったことは言うまでもありません。
 このような楽しい会話が交わされる場が、木山口町まちづくり協議会の望ましい姿だと思いますし、その姿を今日見ることができたことは、大変大きな成果でした。

 協議会に集った皆さん、みんなで力を合わせて、我が町きやまの「個性」を生かしたまちづくりを考え、創っていきましょう。
 参集された皆さん、お疲れ様でした!

※本会は、基山町歴史的風致維持向上支援法人として基山町の指定を受けています。


●長崎街道沿いに設置された「長崎街道」の銘板
※基肄かたろう会の皆さんのご努力によって設置されたもので、これもできることを持ち寄ることの姿の一つです。  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:38Comments(0)活動・報告日記

2020年09月10日

■令和2年度の「きやま創作劇」

 当会も協働団体として深く関わっている「きやま創作劇」。

 令和2年9月1日付け、『広報 きやま』5頁を御覧になった方は、御存知のことと思います。

 令和2年度のきやま創作劇は、新型コロナウィルス感染症の拡大を受け、きやま創作劇実行委員会ならびに基山町役場まちづくり課で、考え、悩み、議論した結果、大変心苦しいことではありますが、公演を断念することになりました。
 関係する多くの皆さまに、大変長い時間お待たせしたこと、心より深くお詫びいたしますとともに、withコロナ・afterコロナを心に置きながら、次回、第5回きやま創作劇へむけた取り組みへとエネルギー充填をお願いいたします。

 令和2年12月10日(日)開催予定の「ふれあいフェスタ」については、「きやま創作劇の歩み」として、きやま創作劇の原点となった「ありがとう水門セレモニー」から「基山町小中学校合同創作劇 こころつないで」そして4回を数える「きやま創作劇」の全てが分かるダイジェスト版「きやま創作劇」の上映を行うとともに、「きやま創作劇」から選りすぐった2話のビデオ上映を行うこととしています。
 「きやま創作劇」の全てが分かるダイジェスト版『きやま創作劇』は現在作成中です。2話のきやま創作劇とともにお楽しみください。


  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:18Comments(0)主催・共催事業