2018年06月23日

■「草莽の民」(その11)

●国境のもう一つの姿
 三国境の地にあったとされるものが、筑紫野市原田にある伯東寺に残されています。
 それは石製宝篋印塔で、仏舎利を納める舎利塔と経典を納める宝塔の二つの役割があるとされています。前者は紀元前300年を前後する頃、インドのアショーカ王(漢訳音写:阿育王)が釈迦入滅後に建てられていた舎利塔8つの内、7つから分骨し、中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国に配った8万4千塔(銭弘俶塔(せんこうしゅくとう))が原型とされる役割で、後者は、「宝篋印陀羅尼経」が納められたものがあることから考えられています。日本では、これら二つの役割を考慮しつつ宝篋印塔の性格を考えていく必要があるとされています。

■原田伯東寺にある移設された宝篋印塔
(移設にご尽力いただいた伯東寺様に心より感謝です!)

 宝篋印塔が日本へ伝わった以後は、供養塔、墓碑塔として五輪塔とともに墓地に据え置かれることになり、三国境に建てられていた理由が、三国境、三国坂、三国峠など様々な呼称を有する地であり、峠越えの大変さや、原田と木山口の境界にある地として道中絶命した無縁の人々を弔うために建立されていることが伝えられています。

 集落、村、国の境界で忘れてはならないこととして、境界に座する仏様がおられます。


■嬉野宿の墓地の入り口にあった六地蔵
(あの世と現世の境界におられる地蔵様)
 現世とあの世の境界におられ、絶命し冥界へ旅立つ衆生(人々)を御導きくださる地蔵菩薩様です。境界に座し御導きくださることから、墓地、集落、村の入口に地蔵堂や地蔵石像を見ることができ、基山町にも小倉集落や、皮籠石集落の境界に六地蔵石造が建てられています。

■皮籠石の六地蔵尊
(集落の境界におられる地蔵様)

 集落を出るといつ死が待っているのか分からない、旅路の危うさを表現する文化遺産として近世以前の旅を象徴しています。

 現代の旅も、必ずしも安全とはいえない報道が耳目に入ってきます。現代の旅も、安全神話は崩れつつあるので、不安がつのります。

●「道中」お気をつけて
  


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2018年06月22日

■「草莽の民」(その10)

■二国境・三国境(その4)
●枯れ松国境争論【紙芝居】
 裏話も含め、いくつか想像を加えた紙芝居をつくってみました。
 むかし話として読んでみてください。
絵1


 二国境を示す標石が建てられた土地は、もともと大きな松が植えられていました。しかし、文化2年に、この松が枯れてしまったので、田代代官所はその場に小さな松を植えました。

絵2


 しかし、それを不満に思った人なのか、何者かがその松を取り除いてしまったのです。
 代官所は、また松を植えても、再び誰かが持ち去ってしまうだろうと、肥前国城戸村の庄屋である梁井徳介に国境を標するための石碑を建てるよう命じました。

絵3


 さて命令を受けた城戸村の庄屋徳介は、枯れ松があった土地は筑前の領地だという噂を耳にし、この状態でいきなり筑前国と話をしても諍いになるだけだということで、まずは、三国境に境石を建てることにしました。
 当時、三国境には盛土をした割塚がありましたが、この割塚がすぐに壊れる心配があったわけではありません。

絵4


 城戸村の徳介は、二国境について筑前原田村の庄屋山内杢七と二人で話すよりは、もう一つの国である筑後国を交えた三者で協力して三国境石を建てることで、筑前国原田村と仲良くなり、その後に二国境石の話をしようと考えたのです。

絵5

(個人御所蔵のため原図掲載ができずに申し訳ありません。)

 そうして、肥前国の城戸村庄屋梁井徳介と筑前国の原田村庄屋山内杢七、そして筑後国の三沢村庄屋花田卯八の三名をそれぞれの筆頭として話し合いが行われ、三国境石は完成しました。
 当時の絵図が基山町内の個人宅に残されており、江戸時代に描かれた絵図ですが、色彩鮮やかな絵図として貴重な資料の一つです。

 三国境石建立を無事終了した城戸村梁井徳介は、この工事で仲良しになった筑前国原田村庄屋の山内杢七と代官から命じられていた二国境の課題に取り掛かります。しかし、予想したとおり、どこに建てるのか問題になりました。

絵6


 原田の庄屋も城戸の庄屋も、互いの記録や証文を持ち出し、「国境はここだ!」「あんいや、ここばい!」と言って譲りません。
 そこで、城戸村の庄屋徳介は、三国境石を建てた時にお世話になった、筑前国の御境目掛(おさかいめかかり)に意見を求めました。

絵7


 御境目掛から、「きっちり測量し、二等分にすべし。」との提案を受け、件の土地を二等分し、そこに主柱石と傍示石二ヶ所を建て、国境を表現する方法をとりました。
 代官に命じられて2年の月日を費やしましたが、文化4年に二国境石建立が完了したのでした。

※国境に「口なし」ということで、国境線上には「クチナシ」が植えられていた絵図が残されています【絵1】。

描画:ともぞう 文:しょうこ
  


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2018年06月22日

■「草莽の民」(その9)

■二国境・三国境(その3)
●枯れ松国境争論の裏話
 城戸村の庄屋梁井徳介が、田代代官所に呼ばれ二国境争論を収集するように命じられ、文化4年までの2ヶ年を経て完了します。そこに至るまでの経過は、先に語った物語として伝えられていますが、裏話としていくつか語られていることがあります。

①大松が枯れた!
 大松も自然界にあるものですので、枯れるのは世の常ですが、この枯れ松国境争論が起こった時の関係者の状況をみると、筑前国原田村の庄屋山内杢七は庄屋になったばかりで、庄屋としての務めを学ぶ最中だったとも伝えられています。


②大松が植えられていた場所は、実は筑前国の領土だった。
 城戸村の庄屋梁井徳介は、田代代官所から大松が枯れた場所に、再び国境石を建てるよう命じられ、早速、隣国の筑前国原田村の庄屋へ使いを出しますが、原田村の庄屋山内杢七の不在、「そうこうしている内に」という時間差が読み取れます。一説には、この間に大松が植えられていた場所が、実は筑前国の領土であるという「噂」を梁井徳介は聞きつけていたのではないかという裏話が語られています。

③二国境の位置を示す証文
 三国境の石標建立を成し遂げ後、城戸村の庄屋徳介と原田村の庄屋杢七は、それぞれ証拠の品を出し合います。その出し合いも物語によっては、城戸村の徳介は証文を出したが、原田村の杢七はおかしいの一点張りであったとか、その逆も伝えられており、肥前国城戸村側の文書と筑前国原田村側の文書で書きぶりが異なっています。文書資料は書いた方の「都合」で書かれているものなので、どちらが本当なのか今となっては分かりません。
 現在、基山町城戸の個人宅に所蔵されているその時の文書には、事細かに記された現況図や国境石設計図など、貴重な資料が残されています。三国境石の周囲に三ヶ所の四角い穴がありますが、この文書が明らかになるまでは、雨量計といった想像もなされていました。絵図をみると四角い保護柱がこの3ヶ所の穴に建っているのを読み取ることができました。
 この枯れ松国境争論は、石柱としての国境石と、それを物語る文書資料が整っている貴重な歴史資料と言えます。


■争論に関わった村

 いずれにしても、二人では片が付かない二国境争論を一旦棚上げし、近くにある三国境を修理するという三人争論へと目を転じさせ、その間に二国争論に係る人々と親しくなった後、懸案であった二国境争論へ移ることを模索した肥前国城戸村の庄屋梁井徳介氏の知恵に頭が下がる思いです。二国境石、三国境石に係る図面が数多く詳細に残されているところをみると、城戸村の庄屋梁井徳介氏の二国境石設置に、今でいう設計図をたくさんつくり尽力された姿が伺えます。
  


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2018年06月21日

■「草莽の民」(その8)

■二国境・三国境(その2)
 当初の目的であった肥前・筑前の二国境の協議は、2年後の文化4年(1807)から再開され、国境の目印に再び松を植えると近くの田に日陰が生じるとして石柱にすることとあいなりました。4月18日から石柱製作に取り掛かりましたが、再び二者の見解に相違あることが明らかとなります。そこで、御境目方藤本惣七が枯れた松を取り除き、問題となる地を測量した上で等分に分けることを提案します。これを二人は受け入れ、5月9日~14日にかけて枯れた松を取り除き、15日から測量に入りましたが、そこでも二人は対立。今度は肥前国姫方村庄屋定右衛門が仲介し、5月18日に基礎石を据え改めて証文を交わし、文化4年8月17日に二国境石設置が完了することになったのです。
 この時建てられた二国境碑は、主標の中央標石に「従是西肥前国對州領」「従是東筑前国」と記され、主標一つでは1点でしかないため、主標を中心とし北と南に傍示石を置き、国境を直線で表現しています。また、国境線を表現するために、両国銘を記した傍示石を背中合わせにし、合わさった面が国境として表現されています。


■二国境石(二つの石の合わせ目が国境線を表現しています。)

■主柱石
 現在国道3号西側に、この時の国境石が移設され、主標は当時のものが、傍示石はレプリカが置かれています。当時の傍示石は、現在国道3号の中のもとあった場所に埋設されています。
 交差点の名称となっている「三国境」は、アマンディ―東方の小山の上に、この争論時に三つの国で議論し建てられた三国境石が現在も建っています。この三国、つまり肥前-筑前-筑後の境を示す地という意味で「三国境」という交差点名になっています。この三国境標石がある小山は、学校用地となっているため、必ず下にある麻生学園小学校に申し出て見学するようにしてください。

 この「枯れ松国境争論」について、現代の研究者による報告がなされていますが、これまた基山町側、筑紫野市側で若干記載されている内容が異なっています。以下に文献を記しておきますので、読み比べてみてください。

■文献
基山町 2009 『基山町史』下巻 166頁~168頁 「枯松跡国境石」
筑紫野市教育委員会 1994 『筑前原田宿 歴史資料調査』 「御境石建覚書」について
  


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2018年06月21日

■「草莽の民」(その7)

■二国境・三国境(その1)
 国道3号を北上すると、基山町とお隣筑紫野市の境に「三国境」という交差点があります。ここは、市町境であると同時に佐賀県と福岡県の県境でもあるのはご存知ですね。

■三国境交差点(写真の樹木の中に、二国境碑があります。)

 この「三国境」の地で起きた「枯れ松国境争論」の物語を紹介しましょう。

【枯れ松国境争論】
 時は、江戸時代中期、文化2年(1805)2月に、ここ肥前と筑前の二国の境に国境を示す松が植えられていましたが、その大松が枯れてしまったのです。長崎街道沿いでもあり見苦しくもあったため、田代代官所はその跡に小松を継いだのですが、国境のこと、今もむかしも変わりません。領地争いとしてトラブルに発展します。そこで田代代官所は境界争いを収束させるため、肥前国城戸村の庄屋梁井徳介に命じ、筑前国原田村の庄屋山内杢七と協議させることとしました。徳介は、早々に原田村庄屋宅へ使いを出しますが、杢七は福岡へ出向き留守であったため協議ができず、そうこうしている内に再び代官所へ進捗状況報告に呼び出されることとなります。そこで、徳介は自分と原田村庄屋の杢七の二人では協議は整わないと判断し、二国境の東の小山の上にある三国割塚を先に修理した後、二国境の争論を解決した方がよいと田代代官所へ進言したのでした。
 この進言は聞き入れられ、原田村、そして筑後国三沢村へ提案がなされ、筑前国から原田村庄屋山内杢七ほか4名、肥前国から城戸村庄屋梁井徳介ほか3名、筑後国から三沢村庄屋花田卯八ほか2名が立ち会うこととなったのです。そこでも筑後国の銘文をめぐって難航したものの、発議した3月2日から同年11月24日には完成しています。        ・・・つづく


■文化2年に完成した三国境石
(民間所有地内にあります、無断立入は禁止されています。)
  


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2018年06月17日

■「草莽の民」(その6)

 ここからは、劇中に取り上げられる基山の文化遺産について解説します。
 きやま創作劇の基盤は、基山にある歴史や文化を素材とし、基山でしか描けない劇を創ることです。ですから、人物・衣装・小道具・大道具・セリフ、そしてこれらが絡み合って姿となる演劇に基山でしか描けない舞台ができあがり、これがひいては個性豊かな劇につながっていきます。これは言い換えると、基山に来ないと観ることができない創作劇(個性)だとも言えます。

■長崎街道
 創作劇では、「長崎街道二国境」の場面が登場します。
 「二国さかい~っ????」という方もおられるでしょう。「三国境」といえばお分かりの方もおられるかもしれません。そう国道3号を北上するとお隣の筑紫野市との境に「三国境」という交差点があるのはご存知ですね。最近のドライブナビゲーターでは、「福岡(佐賀)県に入りました!」と告げる場所です。この交差点の西側(上り車線側では左手)に「二国境の石碑」が移設され残されています。また、国道3号のこの交差点上り車線側の道路上に3つのマンホールの蓋が一直線に並んでいるのを併せてご覧ください。このマンホールがある場所に、本来は二国境の石碑が建っていました。国道3号拡幅時に、道路西側に移設されています(くれぐれも運転者の方は、よそ見しないようにお願いします。国道3号上り側には駐車場もありますので、ご活用ください。また、この二国境の石碑の物語は、回を改めて語りましょう)。

●移設された二国境碑がある「広場」

●二国境碑

 この二国境の東側、下り車線東側に北九州市大里から長崎を結ぶ長崎街道が通っています。現代の交通路(国道3号やJR鹿児島線など)に重なり、または削られ、面影は失われていますが、我が町基山にも切れ切れながら長崎街道を偲ぶことができます。

●基山町内の長崎街道(太い赤線)

 この長崎街道は、
●明治9年(1876)には、東京市(現在の東京日本橋)~長崎港までを太政官達(だじょうかんたっし)によって1等道路としています。
●明治18年(1885)には同路線を国道4号に、また鳥栖市田代宿より分岐し熊本鎮台へ至る道路を国道11号としています。
●大正9年(1920)には新たな道路法が施行され、東京から鹿児島県庁所在地までを国道2号に、鳥栖市桜町から分岐し長崎までを国道25号に改称しています。ちなみにこの大正9年に施行された道路は、「主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線」とされ、多くの重複路線があり、国道1号と2号は三重県四日市まで重複し、ここより分岐するとされています。
●昭和27年(1952)に道路法が改正され、国道2号を国道3号に、国道25号が国道34号に改称され現在に至っています。

※明治9年(1876)に記された『基肄郡村誌』に、現在のけやき台駅東にある「鎌割橋」についての記載があり、そこには鎌割橋の構造について「石造」の文字が見えるとともに、1等道路とされている長崎街道について「東京街道」という呼称も見ることができます。



●現在の国道3号(白坂)

 今もむかしも多くの人、物が行き交う長崎街道・国道3号には、多くの物語が残され、今も行き交う人びとの中に想い出として新たな物語が紡がれています。
  


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2018年06月16日

■「草莽の民」(その5)

■旧暦(太陰太陽暦)と新暦(太陽暦)

 「草莽の民」(その3)の表の中に、「新暦」なる用語を使っていましたが、今回は、明治時代に変わった出来事の一つである暦について記しておきます。

 幕末から明治初期は、暦制度も太陰太陽暦【旧暦】から太陽暦【新暦】に変わった時期で、明治改元の日も旧歴でいうと1868年9月8日ですが、新暦では1868年10月23日にあたっています。この太陽暦(グレゴリオ暦:現在使用している暦)は、明治5年(1875)12月3日【旧暦】から採用され、この日を明治6年1月1日【新暦】としています。
●太陰太陽暦
 月の満ち欠けを基準とし、季節とのズレがないよう太陽の動きも考慮し設定されています。
 新月から次の新月までは、平均して29.5日間で、一年間が354日になり、太陽暦を基準とする場合より11日短く3ヶ年で約一ヶ月のズレが生じます。そこで約3ヶ年に一度、閏月を設け。一年間を13か月にし太陽暦に合うように調整されます。


●太陽暦
太陽暦は地球が太陽の周りを回る周期を基準にしており、太陽の周りを一回りする時間365.24219日を基準とし、1年間を365日とし、小数点以下を1日にするために4年に一度閏年を設け366日とし調整しています。(0.24219×4=0.96876日≒1日)


 太陽暦を採用した背景は、3ヶ年に一度閏月を設けなければならない太陰太陽暦では、1ヶ月多い13ヶ月分の官吏給与予算を確保しなければならない明治新政府の懐事情にあったようです。
  
タグ :旧暦新暦


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2018年06月15日

■「草莽の民」(その4)

■佐賀の乱・佐賀の役・佐賀戦争
 明治6年(1873)の征韓論(李氏朝鮮を力づくで開国させるという論争)をめぐる政変から始まる佐賀を舞台とした戦役で、江藤新平の征韓党と、島義勇の憂国党によって明治政府に対する戦でした。


■佐賀の乱が起きた時の戦傷が、今も残る佐賀城鯱の門(佐賀市)

 結果として、大久保利通率いる徴兵制度によって従軍させられた軍隊によって制圧され、薩摩や土佐に支援軍を求め奔走した江藤、島は捕えられ処刑されます。この旧佐賀藩士ともいえる人々の反抗は、明治新政府の「新たな社会」に幻滅し、不満をつのらせていた旧武士階層のはじめての反抗として歴史に記されています。
 この時は、江藤の援軍要請を時期尚早とし断った薩摩の西郷隆盛も、後に、西南戦争を起こし亡くなります。

 この戦は、「佐賀の乱」「佐賀の役」「佐賀戦争」と呼称されています。いずれも呼称する立場を考慮すると誤りではありません。どこが異なるのか。

●「乱」は鎮圧した政権側からみた立場
●「役」は奈良時代の呼称では「えだち」と読み、徴兵された人々が従軍する戦を指し、我が町基山ではよく知られ特別史跡基肄城跡が築かれる契機となった白村江の戦いは、『日本書紀』持統天皇4年(690)10月の条に「百済(くだら)を救ふ役(えだち)」と記されています。徴兵された人々の視点や徴兵する国家の視点といえます。
●「戦争」は、政権側、革命側、徴兵される人々側、いずれの立場からも呼称できるものです。

 教科書的にいうと政権に反抗し、体制変革を求めた江藤らの姿は、「乱」と映ります。

 一方、この戦は、江藤抹殺を画策した大久保の謀略であったとも云われ、それを証拠立てるかのように、江藤の助命を願うため岩倉具視が送った使者の到着を知りながら、使者に会わずに江藤を処刑した大久保の姿が回顧されています。この点を考慮すると、佐賀の乱ではなく、佐賀戦争とした方が望ましいという意見もあります。
 いずれにしても、置かれた立場から見た時の用語であるということを知り、使っていくことが必要でしょう。
 
 余談ですが、政権転覆を成功させた場合は、「変」という用語を用います。有名な戦は、明智光秀が織田信長を襲撃し成功した「本能寺の変」があります。
  


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2018年06月15日

■「草莽の民」(その3)

■明治維新
 今まさに佐賀県内では、「明治維新」150年記念行事が執り行われています。

 では、明治維新とは、ぴったり150年前という一時点を指すのでしょうか。いまから150年前といえば1868年。この年は明治改元の年を指しますが、政治体制の変革は、前年の慶応3年(1867)の大政奉還、王政復古に始まっています。

 明治維新とは学術的には、

①嘉永6年(1853)の黒船来航から始まる徳川政権が動揺する5年間【動揺期】

②徳川政権の政治運営の矛盾をきっかけとした倒幕論吹き荒れ、坂本龍馬たち、まさに創作劇のタイトルでもある草莽の志士が躍動し王政復古に体現される明治改元までの安政5年(1858)~慶応3年(1867)の10年間【動乱期】

③そして新たな明治政権の政治運営に迷走し権力闘争にまい進した結果、維新三傑と呼称される西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允が死去し、資本主義社会へのうねりと個々の「正義」を求めて突き進んでいった明治元年(1868)~明治10年(1877)までの10年間【確立期】

を指しています。あわせて25年間の出来事を明治維新と読んでいます。




  


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2018年06月14日

■「草莽の民」(その2)

■「草莽」とは
 今回の創作劇は、副題として「~明治基山に生きた人達~」とし、時代設定は、明治維新、すなわち幕末から明治初期の24年間を舞台背景としています。

 この時期といえば、長州藩士久坂玄瑞(くさかげんずい)が土佐藩士武市半平太(たけちはんぺいた)宛の書状に記した「草莽志士糾合義挙(そうもうのししきゅうごうぎきょ)・・・。」の文言が思い起こされます。この手紙は、記された文言を見た坂本龍馬が土佐藩脱藩を決意した手紙として知られています。そこに込められた思いには、長州藩士で思想家、教育者として知られる吉田松陰(よしだしょういん)が提起した「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」に影響を受けています。



■吉田松陰を輩出した長州藩の藩校「明倫館」
(現:萩市立明倫小学校)

 嘉永6年(1853)に「襲来」した黒船来航に始まる欧米列強と相対する日本の国情を見た吉田が、「これからの日本は藩や武士という枠組みにとらわれず国民一人ひとりが立ち上がり、国の行く末を考え行動すべきである。」という意を込め、孟子の言である国に仕えない臣民が立ち上がるという意から「草莽」という言葉を使い、この思想にのった言葉として久坂が「草莽志士」として記しています。

■坂本龍馬像(長崎市)
 【藩の枠にとらわれず世界を相手に躍動した坂本龍馬】

■坂本龍馬が立ち上げた日本で最初の会社組織「亀山社中」(長崎市)

 封建主義社会から資本主義社会へ動く激動の中、国の行く末を考え、原動力となり官位も地位も無く躍動した、まさに草莽の民が今回の創作劇の主役たちなのです。
  


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2018年06月13日

■「草莽の民」(その1)

■「草莽」とは
 今回の第3回きやま創作劇のタイトル「草莽の民」にみる「草莽(そうもう)」とは、どういう意味を持つ言葉なのでしょうか?

 字義をたどると、草深い様という意を持ちます。




 この言葉を最初に記録に残したのは、紀元前3世紀から4世紀に中国戦国時代(日本では弥生時代早期から弥生時代前期)に生きた儒学者である孟子と伝えられています。
 孟子の言を記した『孟子』に、孟子の弟子である萬章が師に問うた言に対する応えに出てきます。

「孟子曰、在國曰市井之臣、在野曰草莽之臣、皆謂庶人、庶人不傳質爲臣、不敢見於諸侯、禮也、(国都にいて仕えない者を、市井の臣という。田舎(在野)にいて仕えない者を、草莽の臣という。これらは皆庶人(しょじん。無位無官の者)ともいう。庶人は伝質(でんち。仕官したいときに朝廷に出す付け届け)を贈って家臣とならない限りあえて諸侯に会見しない。これは礼なのだ。)」と。

 孟子が説く「草莽之臣」とは国に仕えず在野にあって国のことを思い行動する人のことを指しているのだと言っています。「臣」と言っていますので、権力に仕える者という意味で臣下、臣民という意を含んでいます。
  


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2018年06月03日

きやま創作劇実行委員会

 当会も団体メンバーとして参画している「きやま創作劇実行委員会」の公開ブログを、基山町役場HP内に開設しました!

 「基山WEBの駅」を御覧ください。


 ■PC版タイトル


 ■スマホ版タイトル

 創作劇に関する活動情報は、今後は「基山WEBの駅」内のブログへ掲載します。
 創作劇に関する歴史的な物語情報は、今後も当会のこのブログ内にて解説していきますので、併せてご覧ください。

 今年の創作劇では、どんな物語が語られ、そして集ったみなさんにどんな物語が生まれるのでしょうか・・・・楽しみです!  


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