2018年04月18日

■第3回きやま創作劇 はじまり、はじまり~っ!!

 昨日、第3回きやま創作劇公演にむけて実施団体が会し、第1回きやま創作劇実行委員会実務者会議が開催されました。
 当会も参画している「きやま創作劇実行委員会」メンバー、町役場からは、事業主管課であるまちづくり課、子どもたちに関係する教育学習課の方々が参集し、新年度を迎え新しいメンバーも加え、①昨年度の反省の確認、②今年度へむけての改善や方法、③公演日までのスケジュール等について意見が交わされました。


 公演日は、昨年末の反省会の折に諸事議論されましたが、例年どおり、12月のふれあいフェスタの日である、平成30年12月9日(日)となり、それにむけた参画者むけ説明会、第1回練習の日などが決められていきました。

■話し合いの様子

 さあ、今年のテーマは、何でしょうか?
「創造の泉」から漏れ出てくる情報から想像すると、江戸時代末期(幕末)から明治時代の基山を素材とした劇で、激動の時代を生き、我が町基山の発展に力を尽くされた多くの方々が登場するようです・・・・。政治・経済はもとより文化面や生活に至るまで、近代のきやまを描く物語が皆さんの前に繰り広げられるのではないかと・・・思います。
 今年の創作劇の全貌は・・・6月中旬開催予定の劇説明会の時に
 ・・・・・・お楽しみに!

※きやま創作劇に関するブログを、近日中に基山WEBの駅(基山町公式HP内)に開設します。公演に関する情報はもとより、練習日や練習会場など創作劇制作に関わる諸情報を掲示していきますので、創作劇に関わる皆さんは、見逃さないように、ご注意!
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:30Comments(0)主催・共催事業

2018年04月08日

■長崎街道を歩く

 昨日、協働団体である基肄かたろう会の有志で続けている「長崎街道を歩く」を開催し、永昌宿(諫早)から日見宿(長崎市)まで歩きました。



 冬に戻ったような霰まじりの冷たい雨の中、4名で「あ~でもない」「こ~でもない」と「議論」を重ねつつ、時に往復30分の間違った道を平然と歩いたりを繰り返し、昨日の目標としていた日見宿にたどり着きました。


 街化した中が多かった昨日のコースでしたが、数少ない土道(正確には、江戸時代に石敷き舗装がされた街道です)では、えも言われぬコバルトブルーの光を放つ「山ミミズ」に出会い、思わずその奇麗さにシャッターをきっていました。

●光を放つ「山ミミズ」




●矢上神社の「狛犬」


●皆さん、お待ちかねの反省会(あまりの寒さに、お鍋でした。)

 さあ、いよいよ次回は最終かつ最大の難関、日見峠が待ってます。その先には、長崎の街が輝いているでしょう。

●下に見えるのが日見宿、むこうの山が日見峠

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 08:54Comments(0)活動・報告日記

2018年04月05日

■特定非営利活動法人設立への道

 平成18年4月に基山町史編さん事業を支援することを目的として立ち上がった当会の前身「肥前文化財研究会」は、基山町立歴史民俗資料館(現在は廃館)での「みんなが守ってきたきやま」展開催や、平成24年3月に刊行された基山町史上巻・下巻・資料編・ダイジェスト版の制作に関わり、基山町民の皆さまに郷土の誇りである先人たちの歩みを伝えてきました。そして、新たな有志の方々を迎え、平成23年8月に「基山の歴史と文化を語り継ぐ会」として再スタートをしたのです。
 それ以来、基山の歴史を漫画で伝える『発見きやまの歴史』1~3、協働団体である基肄かたろう会のメンバーと調べた基山の文化遺産を伝える『文化遺産情報』1~3、さらには、多くの方々に参加いただいている毎年3月初旬に開催している歴史散歩の文化遺産マップ作成、そして忘れてはならないのが、我が町基山に劇の文化を芽生えさせ、今や年末の定例公演となりつつある「きやま創作劇」の取り組み等、我が町きやまの歴史と文化を様々な媒体で、そして様々な場面で伝える活動を行ってきています。
 この、基山の歴史と文化を語り継ぐ会が、皆さまに信頼される団体へと成長するために、平成30年3月26日付けで特定非営利活動法人設立を行い、平成30年3月30日付けで法人番号指定を受けました。
 活動方針は、今後も変わりません。「できることを、できる範囲で、楽しみながら」進めていく。そして、我が町きやまの誇りである先人たちの歩みを伝えていく。さらには、「守らなければならない文化遺産」という考えにとらわれず、文化遺産からつながる絆づくりへと取り組んでいきます。

 平成29年3月そして12月に設立へむけた議論に参画していただいた会員の皆さま、そして法人化までの諸手続きに関わってくださった皆さん、心より深く感謝いたします。
 さあ、スタートラインに着きました。できる範囲で、できることを進めていきましょう。
 我が町きやまの誇れる先人たちの歩みを伝え、そしてつながる活動を!



※基山町が主宰する「基山webの駅」に当会のブログを開設しました。この「さがファンブログ」では、基山の濃い文化遺産情報をお伝えし、「基山のwebの駅」は、お知らせや活動報告を中心に行います。
 協働団体である「基肄かたろう会」もブログを開設されていますので、併せてご覧ください。

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 19:52Comments(0)お知らせ

2018年04月03日

■「大行事」塔

 我が町基山の秋の大祭・御神幸まつりで知られる荒穂神社へ上る道沿い、明治32年(1902)に仁蓮寺の方々によって寄進された荒穂神社旗立て石の近くに、「大行事」と記された石塔が建っています。



 今週の日曜日、桜の花びら舞う中に建つ姿に、これは「何の石碑?」と思われた方、知的欲求が衰えておられない証拠かも・・・。
 読めば「大行事」と書いてあります。「何かの行事を行った記念碑?」「ここで、何かすごいことが行われる場所を示すもの?」など、その文字から、いろいろと想起されたのではないでしょうか。

■大行事塔
(神仏に関係するものですので「碑」ではなく「塔」と記しています)

 これは、「行事」に重きを置くのではなく、「大行事権現」として仏が神の御姿で請来され、衆生を救済されるという考えに基づく石塔です。
 天台宗の総本山延暦寺ある比叡山には、守護神大山咋神(別名 山王)をはじめとする二十一神を祀る山王二十一社があり、その中のひとつ大行事権現を現し、天台宗の拡大とともに各地に広がっていきます。
 日本古来の八百万の神々は、本来仏が化身として日本に現れた権現であるとする考えで、仏を本地、権現である神々を垂迹とする本地垂迹説に基づいています。鎌倉時代に神仏習合として定着し、明治時代の神仏分離令によって衰退していった思想です。垂迹としての大行事権現の本地は毘沙門天で、持国天などと四天王の御一人として寺院などで拝することができます。福の神の御一人としても知られ恵比寿神・大黒天とともに七福神の中に名を連ねられています。

 話を戻して、この「大行事」塔は、先にも記しましたが天台宗の寺院の拡大に伴い各地に広がり、大行事神社として祀られているところもあります。天の意思(大勅)をして天位(天帝)の行いを実践する事として「大行事」と記され、天台宗の総本山延暦寺の守護神から集落の守り神へ、そして穀物の神へと意味が変化し人々に祀られています。
 基山にもここを含め数ケ所あり、大行事塔の前で、かつては毎年の神事と併せて奉納相撲が行われるところもありましたが、今では神事のみが行われています。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:58Comments(0)基山の文化遺産

2018年04月01日

■特別史跡 基肄城跡 石標・説明石板修理

 本日、午前9時から基肄かたろう会の有志一同で、基山(きざん)山頂にある「特別史跡 基肄(椽)城跡」石標とその横にある解説石板の銘文修理を行いました。山風が心地よく吹き抜ける山頂で、皆さん「熱心」に銘文に墨を入れていきます。


 実は、平成27年(2015)年2月下旬に古代山城サミット基山大会に先立ち、当会有志によって修理がなされていましたが、3年の風雨で墨が落ちてしまっていました。今回で2回目、できることを持ち寄る活動の原点として、大きな一歩も小さな一歩から。
 基山(きざん)に登ってこられた方々から、作業中にも「読めるようになった・・!」「きれになりましたね・・!」というお言葉をいただき、参画したメンバーにも笑顔が浮かんでいました。



 参画された皆さん、お疲れ様でした。「直会」は、また日を改めて・・・・・。

  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 14:27Comments(0)活動・報告日記

2018年04月01日

「天神社」と「天満宮」(結び)

●「安楽寺」から「太宰府神社」、そして「太宰府天満宮」へ
 菅原道真公の菩提を弔う寺として墓所の上に建てられた安楽寺が、今は文道の神・菅原道真公を祀るお宮として広く知られています。そこには、世情に対応し、苦悩し、そして耐えた多くの方々の物語が秘められています。
 結びとして、太宰府天満宮へと至った歴史について触れておきましょう。
 安楽寺が神道の道へと舵をきったきっかけは、明治新政府が打ち出した日本古来の宗教である神道を支柱とし、外来の宗教である仏教を排斥するという神仏分離令の発布に始まります。明治新政府の意図は、神仏を分離する目的であったものが、いつしか廃仏毀釈運動へと転化し、多くの仏教遺産が壊され失われる事態へと至ります。
 そのような世情を見越し、慶応4年(1868)に菅原長者家である京都高辻家より太宰府天満宮正別当延寿王院に対し書状が届き、同年4月に京へ向かった別当信全は、新政府の宗教施策を知る高辻家のすすめで、今よりは神社として立つことを決断します。この時から寺ではなく神社として歩むこととなりました。
 明治4年(1871)には太宰府天満宮は、国幣小社に列せられ、翌5年に太宰府神社と改称されます。国幣小社とは、神社に与えられた社格で、官幣社・国幣社・府社・県社・郷社・村社・無格社と続き、その中に大社・中社・小社が配されています。ちなみに、京都北野天満宮は、官幣中社に列せられています。菅原道真公の墓所である太宰府神社が北野天満宮と同格でないことに端を発し、「北野の同列に」という運動が太宰府で起こります。そして明治28年(1895)にやっと官幣中社へと昇格するのです。

 もう一つの課題は、信仰色が感じられない「太宰府神社」という呼称でした。名称変更が認められたのは、近代から現代へと時が移る昭和22年(1947)のことでした。太平洋戦争に敗戦した日本において、神道が国家の手を離れたこの時こそ、民衆の中に息づいてきた「天満宮」の名のもとに天神信仰へ回帰するために、社名変更を願い認められたのでした。

■太宰府天満宮

 翌昭和23年(1948)には、27歳の若さで西高辻信貞宮司が就任します。九州国立博物館用地として太宰府天満宮所有地を寄付、九州自動車道のインターチェンジ名称に「太宰府」を冠する運動、参道の商店とともに発展することを願い参道西端に大駐車場を整備するなど、時代の先を読み様々な面で力を注ぎ、今、900万人を超える観光客が押し寄せる観光都市・太宰府の基礎を創られた方でした。

■観光客で賑わう太宰府天満宮参道

【参考文献】
太宰府天満宮御神忌千七十五年大祭菅公会(1975)『菅原道真と太宰府天満宮 下巻』
吉川弘文館(1983)『大宰府古文化論叢 下巻』
吉川弘文館(1987)『古代を考える 大宰府』
太宰府天満宮文化研究所(1992)『天神伝説のすべてとその信仰』
㈱学習研究社(2002)『古代の都を復元する』
太宰府天満宮文化研究所(2002)『新菅家御伝』
太宰府市(2004)『「古都太宰府」の展開 -太宰府市史 通史編別編-』
太宰府市(2004)『太宰府市史 通史編Ⅱ』
西日本新聞社 西日本鉄道株式会社(2008)『特別展 国宝 天神さま』
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 06:19Comments(0)基山の文化遺産関連する文化遺産