2018年04月01日
「天神社」と「天満宮」(結び)
●「安楽寺」から「太宰府神社」、そして「太宰府天満宮」へ
菅原道真公の菩提を弔う寺として墓所の上に建てられた安楽寺が、今は文道の神・菅原道真公を祀るお宮として広く知られています。そこには、世情に対応し、苦悩し、そして耐えた多くの方々の物語が秘められています。
結びとして、太宰府天満宮へと至った歴史について触れておきましょう。
安楽寺が神道の道へと舵をきったきっかけは、明治新政府が打ち出した日本古来の宗教である神道を支柱とし、外来の宗教である仏教を排斥するという神仏分離令の発布に始まります。明治新政府の意図は、神仏を分離する目的であったものが、いつしか廃仏毀釈運動へと転化し、多くの仏教遺産が壊され失われる事態へと至ります。
そのような世情を見越し、慶応4年(1868)に菅原長者家である京都高辻家より太宰府天満宮正別当延寿王院に対し書状が届き、同年4月に京へ向かった別当信全は、新政府の宗教施策を知る高辻家のすすめで、今よりは神社として立つことを決断します。この時から寺ではなく神社として歩むこととなりました。
明治4年(1871)には太宰府天満宮は、国幣小社に列せられ、翌5年に太宰府神社と改称されます。国幣小社とは、神社に与えられた社格で、官幣社・国幣社・府社・県社・郷社・村社・無格社と続き、その中に大社・中社・小社が配されています。ちなみに、京都北野天満宮は、官幣中社に列せられています。菅原道真公の墓所である太宰府神社が北野天満宮と同格でないことに端を発し、「北野の同列に」という運動が太宰府で起こります。そして明治28年(1895)にやっと官幣中社へと昇格するのです。
もう一つの課題は、信仰色が感じられない「太宰府神社」という呼称でした。名称変更が認められたのは、近代から現代へと時が移る昭和22年(1947)のことでした。太平洋戦争に敗戦した日本において、神道が国家の手を離れたこの時こそ、民衆の中に息づいてきた「天満宮」の名のもとに天神信仰へ回帰するために、社名変更を願い認められたのでした。
■太宰府天満宮
翌昭和23年(1948)には、27歳の若さで西高辻信貞宮司が就任します。九州国立博物館用地として太宰府天満宮所有地を寄付、九州自動車道のインターチェンジ名称に「太宰府」を冠する運動、参道の商店とともに発展することを願い参道西端に大駐車場を整備するなど、時代の先を読み様々な面で力を注ぎ、今、900万人を超える観光客が押し寄せる観光都市・太宰府の基礎を創られた方でした。
■観光客で賑わう太宰府天満宮参道
【参考文献】
太宰府天満宮御神忌千七十五年大祭菅公会(1975)『菅原道真と太宰府天満宮 下巻』
吉川弘文館(1983)『大宰府古文化論叢 下巻』
吉川弘文館(1987)『古代を考える 大宰府』
太宰府天満宮文化研究所(1992)『天神伝説のすべてとその信仰』
㈱学習研究社(2002)『古代の都を復元する』
太宰府天満宮文化研究所(2002)『新菅家御伝』
太宰府市(2004)『「古都太宰府」の展開 -太宰府市史 通史編別編-』
太宰府市(2004)『太宰府市史 通史編Ⅱ』
西日本新聞社 西日本鉄道株式会社(2008)『特別展 国宝 天神さま』
菅原道真公の菩提を弔う寺として墓所の上に建てられた安楽寺が、今は文道の神・菅原道真公を祀るお宮として広く知られています。そこには、世情に対応し、苦悩し、そして耐えた多くの方々の物語が秘められています。
結びとして、太宰府天満宮へと至った歴史について触れておきましょう。
安楽寺が神道の道へと舵をきったきっかけは、明治新政府が打ち出した日本古来の宗教である神道を支柱とし、外来の宗教である仏教を排斥するという神仏分離令の発布に始まります。明治新政府の意図は、神仏を分離する目的であったものが、いつしか廃仏毀釈運動へと転化し、多くの仏教遺産が壊され失われる事態へと至ります。
そのような世情を見越し、慶応4年(1868)に菅原長者家である京都高辻家より太宰府天満宮正別当延寿王院に対し書状が届き、同年4月に京へ向かった別当信全は、新政府の宗教施策を知る高辻家のすすめで、今よりは神社として立つことを決断します。この時から寺ではなく神社として歩むこととなりました。
明治4年(1871)には太宰府天満宮は、国幣小社に列せられ、翌5年に太宰府神社と改称されます。国幣小社とは、神社に与えられた社格で、官幣社・国幣社・府社・県社・郷社・村社・無格社と続き、その中に大社・中社・小社が配されています。ちなみに、京都北野天満宮は、官幣中社に列せられています。菅原道真公の墓所である太宰府神社が北野天満宮と同格でないことに端を発し、「北野の同列に」という運動が太宰府で起こります。そして明治28年(1895)にやっと官幣中社へと昇格するのです。
もう一つの課題は、信仰色が感じられない「太宰府神社」という呼称でした。名称変更が認められたのは、近代から現代へと時が移る昭和22年(1947)のことでした。太平洋戦争に敗戦した日本において、神道が国家の手を離れたこの時こそ、民衆の中に息づいてきた「天満宮」の名のもとに天神信仰へ回帰するために、社名変更を願い認められたのでした。
■太宰府天満宮
翌昭和23年(1948)には、27歳の若さで西高辻信貞宮司が就任します。九州国立博物館用地として太宰府天満宮所有地を寄付、九州自動車道のインターチェンジ名称に「太宰府」を冠する運動、参道の商店とともに発展することを願い参道西端に大駐車場を整備するなど、時代の先を読み様々な面で力を注ぎ、今、900万人を超える観光客が押し寄せる観光都市・太宰府の基礎を創られた方でした。
■観光客で賑わう太宰府天満宮参道
【参考文献】
太宰府天満宮御神忌千七十五年大祭菅公会(1975)『菅原道真と太宰府天満宮 下巻』
吉川弘文館(1983)『大宰府古文化論叢 下巻』
吉川弘文館(1987)『古代を考える 大宰府』
太宰府天満宮文化研究所(1992)『天神伝説のすべてとその信仰』
㈱学習研究社(2002)『古代の都を復元する』
太宰府天満宮文化研究所(2002)『新菅家御伝』
太宰府市(2004)『「古都太宰府」の展開 -太宰府市史 通史編別編-』
太宰府市(2004)『太宰府市史 通史編Ⅱ』
西日本新聞社 西日本鉄道株式会社(2008)『特別展 国宝 天神さま』