2015年05月16日

肥前国と筑前国の国境に植えられていた植物

 時は、江戸時代。ここ基山は肥前国対州領(対馬藩領)にあり、お隣は筑前国、そしてもう一つ筑後国と接していました。

 「それは、どこ?」と思われますか?。

 基山町の北部、国道三号線の佐賀県基山町と福岡県筑紫野市の境に、「三国境」と記された信号がありますね。そこから南東部の丘陵上に「三国境碑」が建っています。信号にある「三国境」は、かつて3つの国が接していたことを示す地名として、今も伝えられているのです。
 このブログでも「謎のマンホール(旧国境)」として、ここに国境の石碑が建っていることをお伝えしましたが、かつてこの国境にはある植物が植えられていました。

そ・れ・は~~~・・・・?


【三国境碑がある場所は、今の県境・市境と同じはずが・・・・・?】


 く・ち・な・し  「クチナシ」でした。

 国境に口無し、国境問題に口を出さないことを意図して植えられていました。

 今も、むかしも国境問題は、僅かな場所の違いが大きな問題として物議を醸し出します。この「三国境」を舞台にして、江戸時代に起きた国境問題の物語は、また別の機会にお伝えしましょう。

 ここに植えられていた植物や「三国境」の物語を語る、江戸時代に描かれた絵図が、我が町基山には残されています。来年4月に開館する予定の基山町立図書館・資料館の展示室に展示されるといいですね!
 早く見たいという方は、『基山町史 下巻』164頁に「枯松跡境石建立以前の二国境絵図」として載せてありますので、虫眼鏡必携でご覧ください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 07:26Comments(0)基山の文化遺産

2015年05月11日

草スキーの山・基山(きざん)

 特別史跡基肄城跡がある基山(きざん)は、史跡がある山というよりは、多くの方々にとって草スキーができる山としての方が馴染み深いでしょう。

 昭和38年頃撮影された写真からは、雪スキーを楽しむ姿を見ることができ、スキー場としての基山(きざん)として利用されていたことが分かります。草スキーは、最近始まったということではなく、昭和29年3月20日の夕刊フクニチには「草原のスキー(基山の草滑り)」として紹介されています。さらに、昭和10年代に記された『基山郷土読本』という郷土教育の書に「19 草スキー」という項目を見ることができ、古くから親しまれていたことが分かります。


 今もむかしも基山(きざん)の斜面を、子どもたち、お父さん、お母さんが歓声を上げて滑っている姿は、変わらない光景でしょう。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:44Comments(0)基山の文化遺産

2015年05月10日

かつてあった石橋

 基山町の西側、現在の国道3号線に沿って江戸時代の街道である長崎街道(長崎路)があることはよく知られています。街道の道程については、日を改めて記すとして、この街道にごく最近まで石橋が架かっていたところがあります。
 木山口町の北の入口、大字小倉字下桜町です。平成19年に河川改修によってコンクリート橋に架けかえられ、かつての面影を見ることはできません。

■石橋があった場所


■かつてあった石橋
 江戸時代には、河川は町場に入るための防御であったり、行き交う牛馬の足を冷やす場であったりと、様々な場面で利用され、江戸時代に描かれた絵図の多くに架橋をうかがう標記を見ることができません。これらのことから、橋は通常架けられていなかったと考えられています。では、この石橋はいつ架けられたのでしょうか。
 新たに架けかえられる前に、基山町教育委員会によって記録保存措置がとられ、『基山町史 資料編 77頁~84頁』に記されています。詳細はそちらをご覧ください。町史に記されている報告によると、架橋の際に混じり込んだ食器の破片から、江戸時代のどこかで架橋されていたと考えられています。元禄十三(1700)年に描かれた絵図に記されていないことから、それ以降かもしれません。また、この石橋は架橋に際して、不等沈下を防ぐための胴木を配置するなど強固な基礎工事を行い、その上に花崗岩製の切り石が敷並べられていました。

■今の関屋上橋
 今はなくなってしまいましたが、この地に、長きにわたって多くの人びとの往来を支えた文化遺産(石橋)があったことを、記憶の片隅にとどめておいてください。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 07:35Comments(0)基山の文化遺産