2017年08月14日

『八ツ並の姫』が語る時代 (その8-1)

 平安時代中期の物語として語り継がれてきた『八ツ並の姫』の物語。この八ツ並の姫は、争いのある現世を憂い荒れ井戸に身を投げます。その後、井戸の中から現れた姫は、残される子や人びとのことを思い観音さまになられ昇天されます。
 そう、何故お姫様は地蔵菩薩様でも、大日如来様でも、薬師如来様でも、文殊菩薩様でもなく観音さまになられたのでしょうか。
 観音さま、正式には観世音菩薩様です。
 観世音菩薩様は、どのような菩薩様なのでしょうか。
 今回は、「何故、お姫様は観世音菩薩様になられたのか?」について説いてみましょう。

 観世音菩薩様を知ることで、創作劇中で語られるセリフの意味が分かってきます。

 お話が少し長くなるので2回に分けてお話しします。

 観世音菩薩様がどのような菩薩様なのかを知る手掛かりは、法華経という経典の中に「観世音菩薩普門品 第25」という観世音菩薩様の威神力を説く文章があります。それを、そのまま仏像として表現した石造が、インドにあるオウランガバード石窟寺院の中に見ることができます。
 6年前の8月にインド北東部のガンジス河にあるバラナシの火葬施設を見学しに訪れた際に、併せてインド西部のムンバイ近くのオウランガバード石窟を見学した時にお会いすることができました。

                      ■地理的な位置
 まさに、「観世音菩薩普門品 第25」の経文そのままに、観世音菩薩様の周りにレリーフとして掘られています。オウランガバード石窟の石造仏の年代は7世紀から8世紀といいますから、我が町基山に基肄城が造られ大和政権によって国家施設として再整備された時期にあたります。

             ■オウランガバード石窟でお会いした観音様
 この石造が、オウランガバード石窟でお会いした観世音菩薩様です。

 それぞれの説明は、次回へ。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 23:06Comments(0)関連する文化遺産

2017年08月11日

「山の日」記念、基山(きざん)を登る

 本日「山の日」記念として、特別史跡基肄城跡が鎮座する基山(きざん)を登るイベントが、午前6時30分、基山町民会館前をスタート地点として開催されました。


           ■基山(きざん)草スキー場を登る皆さん

 基山町まちづくり課が主催する今年の「健康イベント」に、基肄かたろう会としての参加も2回目で、歴史というよりは歩く・登るに関心がある皆さんとの歩きに、ついていくのが精一杯で、「語る」どころではありませんでしたが、それでも私たちの語りに耳を傾けてくださる皆さんのお姿に、さらなる学びの必要性を強く感じたところでした。

               ■丸尾礎石群での解説の様子

                ■東北門跡での解説の様子

              ■南水門跡の解説に聞き入る皆さん

 本イベントの企画をされ、基肄かたろう会への参画を促してくださった基山町まちづくり課の皆さん、協働参画し道案内をしてくださった基肄山歩会の皆さん、そして今日、遠くは佐賀市からも参集され、私たちの語りに耳を傾けてくださった40名の皆さま、ありがとうございました。

 今日の語りに参画していただいた会員の皆さん、お疲れさまでした。疲れのあまり「直会」はできませんでしたが、まとめてどこかでやりましょう。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 20:26Comments(0)参画事業

2017年08月06日

みんなに守られている史跡 三連水車復活!

 福岡県朝倉市から大分県日田市を襲った豪雨から、昨日で一ヶ月が経ちました。田畑、果樹園、家々、そして多くの尊い命が失われました。被災地に立った時、私たちに見せつけるかのごとく水の恐ろしさを見た時の言葉を失う思いは、東日本大震災の被災地に降り立った時と同じ思いがしました。
 恐ろしい水の力、しかし私たちに恵みを与えてくれるのも水です。多くの報道機関が伝えています、「三連水車復活!」。


                   ■復活した三連水車
 この三連水車は、国指定史跡です。生活に密着した史跡であることを物語るように、朝倉の人びとの手で、一つひとつの木々を取り除き、水路を整え、豊かな水を「元気」に組み上げていく姿が蘇っています。その姿に、地域の人びとの復興にかける思いが、三連水車の回る姿に見た思いがしました。

 ある日忽然と私たちの前に「出てくる」遺跡とは違い、使われ、慕われ、大事にされてきた史跡の姿を見ることができます。
 わが町の特別史跡基肄城跡も、丸林の方々の叡智と力によって守られてきました。遺跡保護(保存と活用)の難しさが説かれますが、長きにわたり大切にされてきた遺跡を、行政の力で「召し上げる」のではなく、地域の方々の思いを大事に支え、感謝することがこれから求められていくのではないかと思います。
 できもしない行政機関の力を示す愚かさ、行政機関に依存する責任転嫁の愚かさに気づき、できることを持ち寄り、皆で支え分かち合うことが、ひいては私たちの人生にとって、孤独な人生から少しでも離れる一歩になるのではないかと思います。

 二連・三連水車の元気な姿に、史跡に対する思いを再確認しました。


                   ■山田堰の様子
  


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2017年08月02日

『八ツ並の姫』が語る時代(その7)

 仲の良かったお父さんたち(いわば、富豪たち)が、突如として仲違いをしてしまう。このような時代とは、これら地方の富豪たちを取りまとめる力・権力者が不在、もしくは弱体化している時代といえます。

 奈良時代から平安時代中期までの時代で権力者とは誰か。といえば大和政権であったり、貴族社会を取りまとめていた王朝国家体制下の権力者である上級の権門と呼ばれた貴族たちです。奈良時代の大和政権下では、強力な律令体制に基づく官僚国家体制のもと、法と法の番人としての軍団、そして貴族たちを支える徴税制度という古代国家体制下にあり、地方の豪族層を官僚制度下に置いた郡司制が施行されていた時代です。宮都(天皇‐貴族)‐大宰府(多賀城)‐国衙(国府)‐郡家という階層の元、支配体制が敷かれていた時代とも言えます。ただし、天皇を頂点とする一元国家体制といえるものではなく、地方の豪族は地方の豪族を郡司として任用し、ローカル・ルールを用いつつ統治していくという二元国家体制であったと考えられています。
 一方、平安時代中期という時代の王朝国家体制はこれらが崩れ、特定貴族に帰属し貴族層が有する権力・権威を後ろ盾として地方の豪族・富豪層が地域支配を強化していく時代にあたり、いわばその後に展開する群雄割拠の武士の社会への過渡期ともいえる時代に変化していきます。
 ここまで記すと、『八ツ並の姫』が描く時代が、奈良時代の出来事なのか一方の極としての平安時代中期の出来事なのか、自ずと見えてきたのではないでしょうか。

 そう、仲の良かったお父さんたち(富豪たち)が、突如として仲違いをする社会、人々を法のもとに抑え込んでいた奈良時代の物語ではなく、これら律令体制が崩れつつあった平安時代中期の一時期を表現した物語であると推定できます。
 平安時代中期といえば、関東では平将門が特定貴族を後ろ盾とする社会に反旗をひるがえし「反乱」を起こした時であり、九州では藤原純友が大宰府を焼き払った「反乱」を起こした、まさにその時にあたっているのです。


 第2回きやま創作劇「八ツ並の姫 観音様になったお姫様」が描く時代は、今から1000年程まえの平安時代中期の物語だったのです。




  


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2017年08月01日

『八ツ並の姫』が語る時代(その6)

 むかし話『八ツ並の姫』が語る時代を探って6話目になりました。
 さあ、『八ツ並の姫』が語る時代について、まとめに入りましょう。

 少々長くなりますが、お付き合いください。

 『八ツ並の姫』を構成している様々な言葉や物語の流れから推察して、この話が描く時代について奈良時代から平安時代中期、いわば基肄城が大和政権によって再整備され古代国家の成立として日本の歴史に刻まれた時代から、菅原道真公が亡くなられ源氏と平氏の権力争いが幕を開けようとする時代の話であるところまでつきとめてきました。

 この西暦700年代から1000年代までの約300年間のどこに「八ツ並の姫」の物語は位置しているのでしょうか。
 それを読み解く鍵は、物語にある次の件(くだり)にあります。

 八ツ並長者と仲のよかった柳川長者の元へ嫁いだ八ツ並の姫。たいそう幸せな日々が流れていましたが・・・・・。

 「世の中は本当にままならぬもので、両家の間に大変なことが起きてしまいました。」
 「はじめのことのおこりと言うのは、わずかな土地のあらそいからでしたが、それが段々と大きくなって、とうとう両家は戦(いくさ)をすることになりました。」


      ■嫁いだ柳川の家の者たちから迫害をうけ、一人悲しむ姫

 ここから想定される『八ツ並の姫』が語る時代とは、いつの時代の出来事なのでしょうか・・・・。
  


Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 18:56Comments(0)主催・共催事業