2020年09月27日

■「間宿」としての木山口町(その2)

 地理的な場所性、それは木山口町と北の原田宿の間にある「三国坂」「三国峠」であり、木山口町の南を流れる秋光川、そして古代以来の筑後方面への路との分岐点としての交流の結節点であったことが、場所性を表現しています。
 街道を歩くと体感できますが、「峠」「坂」を越えるエネルギーは大変なもので、越える前と後での一休みは欠かせません。

 おっと、「三国」の坂や峠がそんなに大変なモノ?

 現在は、国道3号が原田で高架化され、標高差を感じることができなくなっているので、「そんなに大変なの?」とお感じかもしれません。江戸時代に原田宿を描いた絵に、「三国坂」と記された山のような姿が描かれています。絵画に客観性を求めることは困難ですが、描き手の感じ方が描写されていると考えれば、「険しい山」として原田宿側からは認識されていたことが分かります。

■「間宿」としての木山口町(その2)

 話を戻して、「坂」や「峠」を越える前と後での一休みや、明るいうちに「坂」「峠」を越えることができなかった時の休み場として木山口町が機能していたと考えられます。「坂」「峠」につきものなのが、「山賊」「盗賊」「追いはぎ」でしょう。かつては、集落と外界の境、危ない空間、多くの人びとの命が失われた場として「坂」「峠」が社会的認識下にありました。過日の本ブログ(2018.6.23版)でも紹介しましたが、かつて三国境には塔婆の一つである宝篋印塔が建てられていました。現在は、原田にある伯東寺に移設されています・・・・・(つづく)。

■「間宿」としての木山口町(その2)
●笠の開き具合から江戸時代以降に造られたモノと考えられます。



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 08:16 │Comments(0)基山の文化遺産

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