2022年12月05日

■『枯松二国境物語』をふか〜く知る(その3)

●領地
 次に領地の分離が、豊臣秀吉による領土の生産量(石高)見積施策とでもいえる検地によって領地の境界が明らかにされ、江戸幕府(公儀)によって明確に区分けされていきます。

■『枯松二国境物語』をふか〜く知る(その3)
【二国境(三国境交差点)の今】

■『枯松二国境物語』をふか〜く知る(その3)
【国道3号の下に保存された「国境」】

 それまで共有地であった土地が、「国」という境によって分断されていくことになります。それがいつしか「固定」的となり、かつ時間の経過とともに「安定」した領土として認識されていきます。

 劇中で「おもと」さんが「何故争わなきゃならんのか。」と問います。このような争いは公儀(江戸幕府評定所)の記録に残るだけで、1500件ほどが残されています(鳴海、2002)。一方で、公儀による裁断を受けても、共有地であったために裁断を無視した所業も丹波桑田郡田能村と出灰村の争論として記録されているようです。地域の人々にとっては互いに助け合い、使える土地が、「公儀」による分断によって生じた争論であったと言えます(水本、1985)。

 何故、皆、国境を破ってでも土地が必要なのか。現代人には理解し難いところですが、「草山(飼葉【牛馬の飼育のための草】)」「柴山(燃料材としての薪)」「萱山(屋根材)」と呼称されるように、生活維持のために野山は必要だったのです。

【引用文献】
水本邦彦(1985)「村共同体と村支配」『講座日本歴史 5近世1』東京大学出版会pp.117-150
鳴海邦匡(2002)「近世山論絵図の定義と分類試論」『歴史地理学』44-3 pp.1-21



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Posted by 基山の歴史と文化を語り継ぐ会  at 06:38 │Comments(0)参画事業

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